大スターと呼ばれる人たちは、個性が全くないのである。役になりきれるのは、そうした才能があるからだ。特定秘密保護法案をめぐって、吉永小百合や大竹しのぶが反対を表明しても、それは言わされているだけだ。民芸に属したことがある役者などは、そうした思想教育を受けているが、吉永小百合や大竹しのぶは、自分のイメージが良くなると錯覚しているのだろう。周辺の者たちの口車に乗っただけで、哀れといえば哀れだ。日本人である限り、彼女たちも自分で学ぶ姿勢は持つべきだろう。誰かの指示に従うだけではなく、少し位は日本という国家への愛着があってもいい。しかし、それを無理強いしても仕方がない。明石家さんまと離婚することになったのは、大竹しのぶに言わせると、一生女優でありたかったからだそうだ。真意のほどはともあれ、人に注目されていたいのだろう。だから、ついつい今回のようなことになってしまうのだ。役者に求められるのは、間違っても個性ではない。中途半端にそんなものがあれば、役に徹することはできない。抜け殻のような人間でいいのである。許せないのは、大スターの名前を使って、自分たちの主張を通そうとするサヨクである。たいした瑕疵ではないにせよ、それで離れてしまうファンもいるからだ。今回の反対騒動は、60年安保や70年安保の再現を狙っているようだが、それは土台無理だろう。二人とも口ではそう発言したとしても、しっくりいかないものがあると信じたい。吉永小百合の弁護ではないが、サユリストとしては、一言述べておかないと。
←反対のために手段を選ばないサヨクは最低だと思う方はクリックを
https://twitter.com/Minetakesi ツイッターも始めましたのでよろしくお願いいたします。