保守派ネットを条例で大阪市や川崎市が取り締まることは、民衆の発言を封じようとする者たちに手を貸すことであり、それは結果的に左派やリベラルの言説をも縛ることになるだろう。そこまで考えないで拍手喝さいをする者たちは、自ら墓穴を掘っているのである。簡単に名前を公表し、罰則を与えるようなことがまかり通れば、人々は自らの叫びを口にできなくなるのである。恐るべき未来が待ち構えているような気がしてならない▼まさしくフーコーが問題視した「一望監視方式」というものではないだろうか。監視する者が監視される者から見えないようにして、監視するのである。四六時中常に見られているとの思いから、当然のごとく日々の行動が制約されることになるのだ。「見られずに見る」ということが可能になることで、暴力とは違った権力が行使されるのである▼大阪市の場合などは、「ヘイト」と結論付けた根拠が明かになっていない。それでいて一方的な決定が行われたのである。フーコーが言う権力の行使とは、直接暴力に訴えるのではなく、民衆を一定の方向に導いていくことである。反論や異論を吐くことは御法度である。権力者が「ヘイト」などを口実にして少数派を排除し糾弾するのだ。監視社会が強化されることで、自由な言論は許されなくなるのである。大阪市や川崎市の当局者は、なぜそこまで思いが及ばないのだろう。あまりにも傲慢ではないだろうか。
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