多くのマスコミが報道しない自由によって言論空間をゆがめている。中国のスパイと特定されている女性と自民党の参議院議員がベッタリであっても、それを伝えるのは、週刊誌とネットだけである。
台湾侵略を公言し、沖縄を自分の領土だと主張する国家のお先棒を担ぐ政治家を、どうして批判し政治問題化しないのだろう。特定の国を危険視するというのは差別だとか言って、レッテルを貼るような言論がまかり通っているのだ。普通の常識など通用しないのである。
そもそも政治というのは、党派的プロパガンダとは無縁である。アリストテレスは政治について、実践の学と明確に位置付けている。
藤原保信は『政治理論のパラダイム転換』において、アリストテレスが政治をどう考えていたかを紹介しており、大いに参考になる。
「政治学が対象とする立派な善き行為は、きわめて多様で流動的な意見からなっているので、それらは自然によってではなく人為によってのみ存在しうると考えられるほどである。そして善もまた、多くの人に害悪をもたらすこともあるがゆえに、同じような流動性を含んでいる。‥‥それゆえわれわれは、そのような主題について語るにあたっては、ほぼ大体において真理であるような前提から出発し、おおよそにおいてのみ真理であるのを語り、そのような前提からそれよりは善きものがないだけの結論に到達するならば、それで満足しなければならない、それゆえ、それぞれの議論を受け取る側も、同じような態度で臨むべきである」
よりかいつまんで言うと、伝統によって培われたコモンセンスによって、よりベターな選択をするのが政治であるというのだ。知識があるかないかではなく、賢明な考え方を重視するかどうかなのである。
死者を貶めるとか、魔女狩りのような騒ぎに加担するというのは、コモンセンスから逸脱している。私たちが首を傾げたくなるような言論は、実践知としての政治とは無関係であり、論じるにも値しないのである。