中国がどうなるかを世界が注目しているが、予想されているよりも、習近平の権力は強くないように思えてならない。『三国志』を読むと分かる通り、魏蜀呉がそれなりに隆盛を誇ったのは、トップだけの力ではなかった。
劉備には諸葛孔明が、曹操には司馬仲達が、孫権には魯粛や周瑜がいたのである。それぞれが重きを置かれて、意見を具申することができた。それ以外にも多くの者たちの名前が残されているのである。
ところがどうだろう。習近平には、そうした側近がおらず、太子党人脈のイエスマンばかりを集めているといわれる。裸の王様ではないだろうか。
独裁者として偶像崇拝の対象になった毛沢東にしても、最終的には集団指導体制の枠から出ることはなかった。周恩来や鄧小平を抜きにしては毛沢東を語ることができないからだ。さらに、毛沢東にカリスマ性があったことも否定できない。習近平にそれがあるかどうかは疑問である。マルクスの言葉を借りるまでもなく、毛沢東は悲劇であったが、習近平となると、もはや茶番の域なのである。
いかに武装した人民解放軍や警察に支えられても、監視制度を強化して民衆を弾圧しても、それは一時しのぎのことに過ぎない。近代化に歩を進めた中国の民衆は、誰よりも全体主義の非効率性に気づいているはずだ。
遅くはない時期に中国共産党は崩壊する。そのときにアジアは、新たな挑戦に向かうことになるだろう。覇道ではなく、王道による自由アジアの建設である。そこまでも道のりはどうなるかは見当が付かない。しかし、ようやくその胎動が始まったのではないだろうか。世界はアジアを必要としている。共産主義ではない、平和なもっと別な価値観のアジアを。そこで日本が果たすべき役割は大きいのであり、ある意味では我が民族に課せられた世界史的な使命なのである。