日本学術会議の詭弁はもはや通用しない。昨日のBSフジプライムニュースで門田隆将氏が大西隆元会長に対して、中国科学技術院と覚書を交わしていることを批判すると、まともに返答せずにへらへら笑っているだけであった。防衛省の軍事研究には絶対反対を主張しながら、軍民融合の中共に全面的に協力するというのは、ダブルスタンダードも甚だしい▼門田氏から「国民の命の敵」といわれても、返す言葉がなかったのは、自分たちがやっていることを自覚しているからなのである。国の機関として全面的にバックアップを受けながら、日本を仮想敵国にしている国家に対しては、まったく警戒心がないというのは、国民の命などどうでもいいからなのである。事実を突きつけられても、平然と居直るような日本学術会議は、即刻廃止すべきだろう▼日本のマスコミはそのことの全く触れず、政府が学問の自由を侵害しているかのような報道をし続けている。しかし、ネットがあるおかげで、国民の間にも問題の本質が分かり始めている。だからこそ、任命を拒否した政府を支持する国民も多いのである。学者はエリートであるとしても、自分たちを特権視をするのは間違っている。門田氏の批判にまともに答えず、うやむやにしようとするのは、断じて許されることではなく、それでは国民の反感を買うだけなのである。
一部の「知識人」リベラルが、また日本共産党の片棒を担いで騒いでいる。彼らは、戦後の日本の平和と安定から恩恵を受けたにもかかわらず、日本に貢献する気のないフリーライダー(ただ乗り)として、日本共産党の“同類”である。
彼らは、1991年のモスクワのエピソード ―― 当時、モスクワにあった「万国の労働者よ、団結せよ」と記された銘板に、「共産主義に反対して」と市民が加筆 ―― の“重さ”を無視する、〈知〉に対して不誠実な“二流”インテリである。
〈知〉に対して誠実であろうとすれば・・・、
「『資本主義』という言葉を、これまでわたしはできるだけ使わないようにしていた。『資本主義』という言葉には、あらかじめ否定的なニュアンスが塗り込められているように感じていたからである。これは多かれ少なかれ、マルクス主義的・左翼的雰囲気の中で学生時代を過ごした記憶のなごりであったのかもしれない。この記憶のなかでは、資本主義的とかブルジョワ的とかという言葉は、一種の罵倒語であり、ほとんど悪人的あるいは犯罪的というのと同義語であった。
一般的にいっても、資本主義という言葉を好んで口にするのは、マルクス主義者であり、やはり否定的なニュアンスが強い。あるいはそうでなくとも、社会主義との対比としていわれることが多い。
しかも、現代社会は『資本主義社会』だといわれる。そうすると、『資本主義』に塗り込められた否定的なニュアンスは、そのままそっくり現代社会にまで移しかえられてしまう。日本やアメリカのような社会は、トータルに批判されるべき社会だというインプリケーション(言外の意味)がうまれてくる。
これでは、現代社会の持つ複雑性、多様性はとても理解できない。
資本主義社会というような言い方で、あらかじめある種の色をつけてしまったり、議論の方向を誘導してしまったりということでは、とてもではないが我々の生きている社会を理解することはできないだろう。これは、端的にずさんな言葉の使い方だともいえるし、あるいはきわめて巧妙なイデオロギーの操作だともいえるのだ」(佐伯 啓思)という視角を欠いてはならない。