三島由紀夫の『文化防衛論』(1969年発刊)が予言の書であったことは、何度も僕が指摘しているところだが、LGBT法案などによる我が国の混乱の原因が、どこにあるかまで述べていたのである。
三島は日本の左翼勢力について「彼らは最初、疎外をもって出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団におけるマジョリティを次々とつなげて連帯させることによって、社会のマジョリティを確保し、そのマジョリティは容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するというのは、革命のプランである。そして、責任原理の喪失を逆用したそのような革命は現に着々進行している」と書いたのである。
アントニオ・ネグリのマルチチュードにの思想を批判していることは明らかだ。マルチチュードを日本語に訳すと「主体の多様性」「欲望を表現し、世界を変えようとする装置を体現するもの」とか色々いわれる。構成的権力として人民の力で法すらも突破するということなのである。
それを三島は早い段階で見抜いていたのだ。疎外された小集団で主導権を握った者たちが、ネットワークを構築することでマジョリティの地位を築き、それによって革命を達成するという戦略にほかならない。
多様性に立脚して多数派を形成し、それで世の中を変えていくという革命思想が、共産主義の妖怪を墓場から引っ張り出したのである。
これに対抗するために、三島は疎外や少数者であることを積極的に評価する。あえて「反革命」という言葉を使ったのもそのためである。
民主主義が民衆による支配である限り、それは暴走する危険性がある。それに待ったをかけられるかどうかなのである。ネットの世界でも、私たちの言論が主流になることはあり得ない。それでも、少数派に徹することで、逆に大事なものがはっきりと目の前に見えてくるのである。
三島は日本の左翼勢力について「彼らは最初、疎外をもって出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団におけるマジョリティを次々とつなげて連帯させることによって、社会のマジョリティを確保し、そのマジョリティは容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するというのは、革命のプランである。そして、責任原理の喪失を逆用したそのような革命は現に着々進行している」と書いたのである。
アントニオ・ネグリのマルチチュードにの思想を批判していることは明らかだ。マルチチュードを日本語に訳すと「主体の多様性」「欲望を表現し、世界を変えようとする装置を体現するもの」とか色々いわれる。構成的権力として人民の力で法すらも突破するということなのである。
それを三島は早い段階で見抜いていたのだ。疎外された小集団で主導権を握った者たちが、ネットワークを構築することでマジョリティの地位を築き、それによって革命を達成するという戦略にほかならない。
多様性に立脚して多数派を形成し、それで世の中を変えていくという革命思想が、共産主義の妖怪を墓場から引っ張り出したのである。
これに対抗するために、三島は疎外や少数者であることを積極的に評価する。あえて「反革命」という言葉を使ったのもそのためである。
民主主義が民衆による支配である限り、それは暴走する危険性がある。それに待ったをかけられるかどうかなのである。ネットの世界でも、私たちの言論が主流になることはあり得ない。それでも、少数派に徹することで、逆に大事なものがはっきりと目の前に見えてくるのである。