なぜ日本のサヨクは通り一遍のことしか主張できないのだろう。中共や韓国が日本に対して理不尽なことを行えば、それに反撃するのはあたりまえだ。利害がぶつかるにもかかわらず、ニタニタして手を差し出すのは、相手に間違ったメッセージを伝えることになる。斎藤純一の『自由』によると、擁護すべき自由についてフーコーは「自らに権力を行使する他者が存在し、そうした他者との間に不断の交渉が存在することは自らが不自由であることを意味しない。むしろ、自由がそこに内在する他者との関係性を維持するために放棄されなければならないのは排他的な主権性であり、自らが身動きのできない仕方で自ら自身による圧政に服することであった」と書いている。つまり、私たちに影響を及ぼしている支配的な言説から距離をとることができなければ、真の自由とは言えないのである。しかし、日本のサヨクは「民主主義」とか「人権」とかをプロパガンダとして掲げても、それに関して深く考えなかった。戦後民主主義が虚妄であったのは、議論を深める意味で距離をとることができなかったからだ。今問われているのはその点なのである。思考停止状態の者たちが批判にさらされているのだ。しかし、日本のサヨクはまともな返答ができずにいる。目の前に敵対者や侵略者が出現しようとも、頑固一徹に戦後民主主義の言説に殉じようというのだから、あまりにも愚かではないだろうか。
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