日本の民主主義が危機に瀕しているのは、日本人が徳性を見失ってしまっているからだ。モンテスキューは『法の精神』(井上堯裕訳)で「君主政体や専制政体がおのれを持し、おのれを保つには、精錬篤実は多くを要さない。前者では法の力が後者ではいつもふりあげられた君主の腕が、すべて処理し、抑制する。しかし、民衆国家には、いま一つの発条が必要であり、それは徳性である」と述べている。民衆に徳性がなければ、民主制を樹立するのは、困難だというのだ。王制を倒したイギリス人は、クロムウェルに嫉妬し、その結果元の政体に復帰することになった。モンテスキューによると「民衆政体のもとに生きていたギリシアの政治家は、自分を支える力として、徳性の力以外に認めなかった」という。国民へのバラマキしか語らない民主党政治とは、大きな違いである。そして、徳性というのは「法と祖国への愛」なのである。しかも、その愛というのは「自己自身の利益より、公共の利益を普段に優先すること」である。とりわけ民主制においては、各市民に政体はゆだねられる。民主主義を守るというのは、それなりの自覚がともなうのである。徳性を取り戻さなくては、その根幹が揺らいでしまうのである。
どうして日本人は外国を信用してしまうのだろう。悪い人はいないと勝手に思い込んでしまってはいないか。しかし、世界はそんな生易しくない。中共は近いうちに、軍艦を出して尖閣諸島を実効支配しようとするだろう。ロシアは中共と韓国と一緒に、北方領土開発に着手するだろう。日本人が国家として身構えなければ、外国はしたい放題のことをするのである。日本の独立と主権は、日本人自身の手で守っていかなければならないのである。ホリエモンの発言が物議を醸しているが、何のことはない、浅はかさを露呈しただけで、論評にも値しない。それぞれの国家には、歴史や伝統に培われた国のかたちがある。日本は敗戦によって、それを若者に教育することを怠ってきた。だからこそ、愛国心のない、能天気なことを言う人間が出てくるのだ。「中共が攻めてくるわけがないでしょう」と大声を張り上げたホリエモンは、沖縄海域で警備に従事している海上保安官について、どう考えるのだろう。彼らは防人として、日本の領土を死守しているのだ。尖閣諸島沖の最前線に一度ホリエモンは立つべきだ。暴力の海のただなかにあるという現実を、否応なく思い知らされるはずだ。もし中共の侵略を阻止できなければ、尖閣諸島が中共領となったその途端に、日本人がノコノコ出かけていけば、国境侵犯で銃撃され、殺されるのである。
小沢一郎ごときと連携しようとする河村たかし名古屋市長というのは、どうかしているのどではないか。減税を約束すれば当選するというので、それを餌としてぶら下げるのが政治だと思っているのは、有権者を馬鹿にしている話である。それこそ、大衆迎合主義ではないか。どうせ小沢は今後出る幕がなくなるのに、のこのこと出かけて行く神経が異常である。丸山真男が危惧していたように、合理的な制度としての民主主義が機能していなければ、自分が煽っておいた世論に自分自身が引きずられるような、そんな愚かな政治家が脚光を浴びてしまうのである。河村たかしなどは、まさしくその典型ではないか。自分が掲げた政策を実現する振りをするためには、議会などはどうでもよいわけだから、丸山の言葉を借りるならば「反民主的な政治家が、まさに大衆の名において登場してくる」のである。政権を運営していて、ようやく菅直人首相も、大衆迎合主義の危険性に気づいたのだろう。だからこそ、マニフェストの修正を口にしたのだと思う。しかし今になっては遅すぎである。河村のような鬼っ子が出てくるようでは、もはやおしまいである。党利党略ではなく、統治能力のある政治勢力を結集させるためにも、一日も早く、菅直人首相は解散総選挙に打って出るべきだろう。
権力闘争というと、ソビエトで起きたスターリンとトロッキーとのことが、よく引き合いに出される。お人好しのトロッキーに対して、スターリンは手段を選ばなかった。山口昌男の『歴史・祝祭・神話』のなかで、1924年1月21日、レーニンがこの世を去った後の二人の動きを取り上げている。転地療養に南方に向かう列車のなかで、スターリンからの電報でレーニンの死を知ったトロッキーは、すぐにモスクワに取って返すべきであったのに、それをせずに保養地スークムで時間をつぶしてしまった。スターリンが電話でトロッキーに向かって「葬儀は土曜日。いずれにせよ来ないでいい。治療を続けられるようにすすめる」と言ったので、馬鹿正直に参列しなかったのである。実際は日曜日に葬儀が行われたので、十分に間に合ったのだが、陰謀に引っかかったのだ。これによってレーニンの後継者は、スターリンに確定したのだった。トロッキーが優柔不断であったために、レーニンが一番嫌っていた人間の手に、権力が渡ったのである。反対派を抹殺するというのが政治だといわれる。レーニンの死によって、トロッキーが絶望したことが、判断を誤まらせることになったのだろう。菅首相も見るからに覇気がない。それでは小沢一郎を排除できるわけがない。政治家が不安になったり、絶望すれば、その時点でもうおしまいなのである。
権力を握っていたり、金にまみれた人間が、テロについて云々するのは、お門違いもはなはだしい。小沢一郎は何を勘違いしているのだろう。テロリストは、失うべきものを持たない人間たちなのである。小沢のように、警察や検察に御用になるのを恐れてもいないのである。全共闘世代の歌人である道浦母都子は『無援の抒情』のなかで、「男らのかの如月のこころざし純直なりて雪に溢れぬ」と詠んでいる。小沢のごとき人間に、彼らの志の高さと、挫折した悔しさが分かるはずがない。今日から明日にかけて、東京にも雪がつもるといわれる。雪を蹴散らして、首都中枢を占拠する軍隊も、もはやこの日本には存在しない。米国の傭兵と化した自衛隊は、天皇陛下から栄誉の大権も与えられないのである。それでも、三島由紀夫が主張した道義的革命という思想は、最近になって再認識されつつある。国のかたちが破壊されようとしているからだ。2・26事件の首謀者として処刑された磯部浅一は「天命を奉じて暴動と化せ」と叫んだ。そして、彼は「戦場は金殿玉ロウの立ちならぶ特権者の住宅地なり」とまで言い放った。世の中が堕落すると、純直な若者が決起するというのが、今までの日本の歴史なのである。
今日は建国記念の日にもかかわらず、そのことについてマスコミは、一切報道しない。肥後和夫の『歴代天皇紀』を読みながら、岩波文庫の『古事記』にも目を通してみた。『古事記』と『歴代天皇紀』によると、神武天皇というのは、奈良時代になっての諡名(おくりな)で、初めは磐余彦と呼ばれたという。生まれは日向で、兄弟4人して、宇佐、岡水門、安芸、吉備を経て、浪速から生駒を越えて奈良盆地を目指したが、土豪長髄彦の逆襲に遭って苦戦した。熊野に上陸したときには、すでに兄3人は戦死していたが、そこで霊剣を授けられ、八咫烏の導きによって吉野に入った。そして、宇陀や磯城を平らげ、最後に長髄彦を滅ぼし、奈良盆地を平定した。金色に輝く鵄(とび)が飛んできて、弓の弭(はず)にとまったのは、建国時の逸話である。その後、畝傍山の麓の樫原の地に大宮を立て、そこで天皇としての位に就かれた。『日本書紀』によれば、辛酉(かのとり)の年の正月朔(ついたち)であったので、それを太陽暦に換算して、2月11日としたのである。いかに神話であったとしても、古から続く日本の建国に思いをはせることは、大きな意味があるのではなかろうか。それを教えなくなってから、国のかたちが壊れ始めたのである。
衆議院解散の可能性が高まってきている。菅直人首相は、またまた小沢一郎のことでしくじった。脱小沢を演出しようとして、かえって党内の対立を先鋭化してしまった。参議院のねじれもあって、平成23年度の予算関連法案の成立は、ほぼ絶望的になったといわれる。内閣支持率も低迷を続けている。なりふりかまわぬ権力維持の姿勢が、国民に見透かされてしまったからだ。与謝野馨をたちあがれ日本から引き抜いたと思ったらば、今度は社民党への急接近である。数合わせにだけ終始している姿は、あまりにも見苦しい。産経新聞で中曽根康弘元首相は「早ければ、通常国会会期末には衆院解散という可能性がかなり高い情勢になった」と述べている。中曽根の見方は間違っていないと思う。政局は急展開しつつあるのだ。今自民党がすべきは、日の丸と君が代を愛し、国益を最優先に考える政治家の発掘である。世界は今なお暴力の海のただなかにある。牙をむいて襲いかかろうとする国家が存在する限り、それに身構えなくてはならない。しかも、自分たちの国は、自分たちの手で守るという気概がなくてはならない。アメリカ頼みからの脱却が求められているのあり、いよいよ天下分け目の関ケ原である。
前原誠司外務大臣の秘密が暴かれつつある。京都大学で高坂正堯ゼミに属したということや、松下政経塾出身者ということで、保守派であるかのように思われてきたが、実像はそれとは違うようだ。日朝友好京都議連のメンバーだったことが、週刊文春によってすっぱ抜かれたからだ。そして、1999年に北朝鮮を訪問したときに、日航よど号乗っ取り事件の実行犯と、平壌のホテルで言葉を交わしたのだという。いうまでもなく彼らは、共産主義者同盟赤軍派のメンバーであり、日本のレーニンと評された塩見孝也の指示に従って、前段階武装蜂起の国際拠点を北朝鮮につくるために、1970年3月31日、ハイジャックを行った連中である。1975年5月30日、テルアビブ空港乱射事件を引き起こしたのも、彼らの仲間である。さらに、北朝鮮による日本人拉致についても、深く関与したと見られている。警視庁公安部外事二課は、現在も中共や北朝鮮の関係者を徹底的にマークしているのだろうか。それが政権交代によって、形骸化しているのではないか。前原大臣についても、徹底して身辺を洗う必要がある。その意味でも、週刊文春の記事は、特筆されるべきスクープである。
もうここまで民主党政権が追い詰められれば、三月危機説も、信憑性をおびてきた。マニフェスト違反を、国民は断じて許さないからだ。口から出まかせしか言えない大臣がぞっくりでは、誰も民主党政権を支持するわけがない。与謝野馨財務大臣も、苦虫をかみつぶしたような顔をして、ただただ天を仰ぐだけである。マニフェストを断念したのだから、まずは国民に謝罪して、新たな政策を打ち出すべきなのである。そして、堂々と国民に信を問うのである。その洗礼を受けてから、民主党と自民党が政権協議に入って、救国内閣をつくるのが筋なのである。そのプロセスを無視して、自民党が民主党政権の延命に手を貸すのは、それこそ八百長相撲と同じである。お互いが示し合わせて、土俵上で激突したように見せることであり、国民を愚弄することになる。オープンな政治をスローガンにしていたわりには、民主党のやることは、あまりにも姑息である。谷垣禎一自民党総裁が、野合を拒否したのは当然だ。マスコミはいつもの通り、民主党政権との協議に応じろの大合唱であるが、財源を提示した案を出さないのだから、それ以前の問題だ。無策極まりない民主党政権に、もはや明日はないのである。
今日の党首討論は、谷垣禎一自民党総裁に軍配が上がったが、もっと長い時間をかけるべきだろう。あまりにも時間がなさ過ぎた。腹が立ったのは、NHKが番宣をしなかったことだ。事前のニュースでも取り上げなかった。政治の現状理解してもらう絶好の機会であるにもかかわらず、国民に告知をしないのは、ある種の犯罪である。民主党政権をかばうあまり、視聴率が取れない時間帯に流すというのも、苦肉の策なのだろう。本来であれば、ゴールデンタイムをつぶせばいいのである。民主党政権のいい加減さが暴露されるのを、恐れているからだ。マスコミは、菅直人首相が互角に渡り合ったかのような報道をしている。私はたまたまラジオを聴いていたが、いくら民主党が野次で圧倒しようとしても、意気が上がらないのが、手に取るようにわかった。そして、菅首相の議論のすり替えに、国民の多くが頭にきたと思う。それを批判できないマスコミに、もはや存在意義などあるわけがない。菅首相は、一方的に攻めまくられていて、弁解に終始していた。嗤ってしまったのは、大声を張り上げる、サヨク特有の居直りが目立ったことだ。市民運動家から一歩も出ない菅首相を、国民が支持するはずがない。政権与党でありながら、責任感がないのには、ほとほと呆れてしまう。