もう一つの風景
9
近鉄鶴橋駅のホームで電車を待ちながら、房子は取り留めもない不安を感じた。
「あの日何があったか、はっきりと言ったらどうだ」
突然声がした。振り返るが、房子の周りには声の主と思われる人間は誰もいない。その声が男か女かさえ分からない。
休日の駅は様々な風体の人々で賑わっていた。誰もが房子に無関心に通り過ぎていく。
―誰も私の事など知らない。それでいいのだ。私もすれ違う誰もしらない―
しかし、駅で生活する人もいる。売店のなか、駅員、掃除夫、ベンチに長々と横たわる昼間の酔っ払い、日曜出勤の男。眼を凝らすと彼らが見えてくる。彼らが私の中を覗こうとしている。
―私にだけは言ったらどうだ。あの時、おまえはなにをしたんだ―
私は彼らに無言で答える。
―あんた達は一体なにを言っているの? どうして、私には分からない。本当に分からないんだから、どうしょうもないでしよ。私が知っている事なら教えてあげる。知らないことをいいようがない―
彼等の眼を避ければ避ける程、絡みつくように水晶体のゼラチン質のようなものが纏わりついてくる。
目の前に電車が入ってきた。
房子は髪に手をやり深く息をついた。
見慣れた風景が車窓にある。それらは、次々に視界から去っていく。そして、消えても、消えても、それらは連続していて途切れることはない。房子はぼんやりとその流れを見ていた。
一人になると安心する。何もかもがうまくいっていると思う。
良一は、房子の予想した通り、居間で横になり、頬杖をして彼の好きなお笑い番組のテレビを見ていた。
房子が横を通っても、知らん顔をして、時々大笑いをする。
「只今、お帰りくらい言うたらどうや」
「なんや、帰ってたんかいな、おもろいはこのテレビ」
また、大笑いをする。
「ほんまに、ええ年して、昼間からテレビみて笑ろとったら。ほんで、昼ご飯はたべたんか?」
「そこいらのもんで、すました」
ふと、不吉な気がして冷蔵庫を開けた。今晩にと楽しみにして、冷蔵庫の一番奥に入れておいた鯛の造りが案の定、かけらもなくやられていた。ボサーとしていてもこういう事には良く鼻がきくんだからと、房子は呆れた。
房子の様子に気づいたのか、
「あんまりうまいもんばっかり食べてたら、はよ死ぬでえ」
と、良一が憎まれ口を叩いた。
流しの乱雑に置かれた茶碗や皿を洗いながら、食べたいと思えば、鯛の刺身でも口に入る事を喜ばなくてはと、思った。
「誰もこうへんだ?」
「誰もこうへん。ちよっと家あけると、誰もこえへんだか? 変わったことなかったか? いつもや。誰か来たらいいますよって。変わった事あったら伝えますよって。そんな気になるんやったら出ていかんだらええのに」
「まあ、なんにもなかったんやったらええわ」
房子は煙草に火をつけた。男になめられるないようにと無理して吸い始めた煙草だが、その必要のなくなった今も、手放せなくなっていた。光雄も煙草を吸わなかった。良一も吸わない。そして、女が煙草を吸うのを最も嫌っていたのは房子自身だった。
「話があるの。ちょっとテレビ消して」
「おもろいとこやね。ちょっと、待って」
「大事な話なんや」
房子はテレビのスウィッチを切った。良一は不貞腐れて、身体を起こした。大事な話、房子の普段あまり使わない言葉に、良一はすこし怪訝な表情を浮かべた。
「なんや話して?」
「おまえに縁談があるんや」
「そら不思議やない。若うて、男前やから。そらあるやろ」
「どこが若いね。もう二人目の子がいてもええ年して。そんで進めてもええんか?」
「まあ、どっちでもええわ」
「ほんなら、釣書を書きや」
「適当にやっといて、よきに計らえや」
話にならない。いつもこの調子だ。それで、お膳立てすると、必ず女の方から断ってくる。言い訳は少しずつ異なるが大同小異だ。
ーいい人だと思うんですが、少し私とは性格が合わないと思いますのでー
「まあ、嫌われたんやないからええわ」
三度目まではそう言って自分を納得させていたが、それが体のいい断りの文句だと気付くと、今度はあの文句、俺が言ってやるといきまいたが、未だにその台詞を使ったことがない。
話が御破算になると、房子は何故か安心する。また、それがいけないんだとも同時に思う。
庄三さんには悪いが今度の話も駄目だろう。良一だけの責任ではない。私の所為(せい)もある。嫁がくれば、自分は、一人で住もうと思ったりもする。だが、ここは、私と良一の家だと考え直す。
To be continued