もう一つの風景
7
「まさか、酒の呑み方教える訳にもいかんし」と、
順番に指名されて、庄三は少し緊張し、頭を掻きながら言った。車座になった老人達は大笑いした。中には手を叩いて笑っているものもいる。
「まあ、まあ」
世話役が笑いを静めるように両手をひらひらとさせた。
「みんな、ちよっとたいそに考えてんのと違うやろか。わしらは、体力やもの覚えや、その他にも色々と若い者にはかなわんことが、ぎょうさんありますわな。せやけど、若い者にはないもんもある。その一つが経験や、長い時間かけて掴んだもんや。今の子供等が学校で習わへんもんやと思うんや。孫に話したるようにしたらええと思うんや。始めの頃は戦争の話が多かったけど、もう四〇年近く前のことやしなあ」
いっちょかみ(なんでもかんでも首を突っ込んでくる人(関西弁))の万吉が満を持して口を挟んできた。
「時間が経ったから言うて忘れてもええもんとちゃう」
得意そうに座を見回した。世話役は黙ってしまった。庄三も戦争に行った。「炭焼きの出来る奴」と言われて、一番に手を挙げた。炭焼きが出来たわけではない。そういう時はなんでも、一番に手を挙げろと教えてもらっていたからだ。その為か内地が殆どだった。部隊の移動もなかった。ただ、最後には、外地の命令が出た。準備をしているうちに終戦。人並みに戦争の苦労をしたが、死んだ奴に比べると屁でもない。しかし、戦争を思い出すことが殆どないのも確かなことだった。
「体力やもの覚えでも、今の若い奴には負けへんけどな。相撲大会でもしょうか。老人会対子供会や」
金物屋の幸助さんがいっちょかみの言葉を無視して言った。耳が遠くて聞こえずにお茶を啜っているのもいる。その音が、会話の合間合間に聞こえる。
「あんたとやったら、うちの三つの孫でも勝つわ」
肉屋の清三さんが憎まれ口をたたく。
「なんやて」
幸助さんが色をなす。
「まあ、まあと」と世話役が取りもつ。
「世話役さん遊びでもええかな。例えば、いまの子供等がしらんし、せんようになった石蹴りなんか」
「それでもええと思うわ。せやけど石蹴りする場所あるんかいな。それにルールもあったし。誰か覚えてるか」
誰も答えない。
「石蹴りはせがれとよう遊んだなあ。せやけど今ケンケン(片足跳び)出来るか」
「できへん。杖ついてるしな」
「それやったら、うちはおじゃみやなあ。小豆いれて上手につくれる」
話に乗って色々な昔の遊びの名前があがる。すると、座から一人離れ柱にもたれていた老人会の長老が大声で言った。
「わしは夜這と、後家ごろしを教えたる」
ばあさん連中が喜んだ。隣のばあさんと、肩を叩き合って笑い転げる。
長老は何年も世話役をしたことがあり、此の頃は自分は疎外されていると、僻んでいる。だから、座が盛り上がると、突拍子もないことを言い出し、話の腰を折るのを唯一の楽しみにしている。
「子供等が年寄りの話なんか喜んできくかいな。そうやろ、家の中でも年寄りの話は嫌がられんのにや、ぎょうさん子供集めて老人の話を聞く会なんかやってもしゃないで。子供もかわいそうや」
「それもそうや」と頷くものもいるので、収拾がつかなくなった。
房子がお茶を運んで来た。
「えらいにぎやかで」
「にぎやかなだけで、いっこも話進みまへんね。一応は町の代表さんに来てもうてますんやけど」
と、世話役が言った。
一応というのに引っ掛かったのか、長老が世話役を睨んだ。
世話役は身体を小さくして、小声で、
「南や北は決まりましたんかいな」と、房子に聞いた。
「詳しいは知りまへんけど、南では環状線の歴史というのを話さはる人がいたようですけど」
「ふうん、環状線の歴史か」
「ながいこと国鉄に勤めてはったんですて。うちも知らなんだけど、色々な人がいたはりますねんなあ」
「ここにはいてへんな。揚げ足とりのじいさんと、嫁いびりの上手な人やったらいてるけど」
房子にだけ聞こえる小さな声で世話役は言った。
「庄三さんなんかどうやろ」
急に房子の口から名前が出たので、庄三は狼狽えた。
「とんでもない。わしは口下手やし、それに、喋ることもなんにもあらへん」
庄三は慌てて手を振る。房子がそれでも何か言おうとした時、いつの間にか車座の中央に出てきた長老が喋り出した。
「誰もいてへんねんやったら、しゃないな。あんまり気進まんけど、わしがやろう」
今度は世話役がうろたえた。
「どんな話です」
「三光神社の歴史。これやったら子供も喜ぶやろ。真田幸村や。真田十勇士もおもろい」
誰か手の叩く者がいて、それにつられて、話し合いに飽きていた老人が手を合わせ、呆気なく幕が下りてしまった。
「なんや、結局、自分がやりたかったんかいな」
呆れて世話役が言った。
「三光神社って、真田山のとこにあるあれかいな」
誰かが座布団を片付けながら言っている。
「あんまり時間かからんように言うとかな、それにあんまり歴史から離れることは言わんように釘さしとかな」
世話役は苦虫を噛をかみつぶしたような顔をして言った。
「ほんまに、急に名前出すよって、びっくりしたわ」
せっせと湯のみを集めている房子に庄三は声をかけた。
ふと、目をあげ庄三を見る。
輪郭のはっきりとした顔だちと、大きな目は、若い頃の美貌を想像させるのに十分だった。
「えらいすみません。ちよっと出すぎたこと言うてしもて」
庄三の目を真直ぐに見ながら房子は言った。庄三はその目に押されて、視線を外した。
「いや、いや、そんなんかまへんね」
手をふりながら、庄三は房子に何か話すことがあったと思った。
「なんか房子さんに話あったんや」
「へえ、なんやろ。そういうたら、先月うちを捜したはったでいうて冷やかされてましてん。てんごいうたはんのやばっかり思うてたんやけど」
「あ、そうやあの話や、歳とると物忘れがひどなって」
「中村さん」
房子を呼ぶ声がした。
「はーい」と、返事をして、房子は腰を上げた。
「いそがしそうやな。ほんなら今度にするわ」
「いいや、もうすぐおわるんですけれど。庄三さん時間大丈夫やったら娯楽室でちよっと待ってもらえたら」
口早にそう言って、庄三の返事も聞かず、声の方に立って行った。
娯楽室の窓際の椅子に腰を下ろした。憩いの家の周りに植えられたかぼそい桜の木に、それに見合った数少ない花が開いていた。敷き詰めたように咲く桜も好きだが、花の枝を一つ二つと数えられる小さな木もいいもんだと、庄三は目を細めた。
「もう桜の日なんやわ」
房子が声をかけるかわりにそう言って、庄三の前に腰を下ろした。
「そうや、一日一日が桜の季節やから。房子さん風流やなあ」
「そんな、めっそうもない」
房子は慌てて手を振りながら、胸の底を冷たい風が一瞬通り抜けていくのを感じた。今は無関係で、日ごろは忘れている筈の時間が、何気ない自分の言葉の中に、身体の中で無意識のうちに飼育していた生き物が不意に現れるように蘇っている。
罵倒の限りを言った後、畳に顔を擦りつけて哀願を繰り返す。
光雄は無表情な目を戸口の方に向けている。良一は母の剣幕に怯えて、両足を抱え身体を丸め時々窺うように両親に目をやる。
地獄を振り払うように房子は叫ぶ。
「お願い、出て行って」
何度も、何度も叫ぶ。
後に来る重苦しい沈黙の中で、光雄は、あの時も、平静な声で、
「もう、外は桜の日やで」
と、言った。
To be continued