創作日記&作品集

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連載小説「もう一つの風景(14)」

2016-02-24 07:40:50 | 創作日記
もう一つの風景

14

 光雄は二学期が始まるとすぐに辞表を出した。昼間に帰ってきて、ほっとしたような顔をして、居間にゴロリと横になった。日ごろから自分は教師に向かないと言っていた夫が、引き際の格好の理由を見付けたように、房子には思えた。
 駆け落ち同然でやっと持った、六畳一間のささやかな幸せな日々が、夫のそれ程にまで嫌な仕事の上に成り立っていたのかと房子は思った。その報いだろうか、有り金を持ち出して消えた。
 一ヶ月分の生活費の全てを失った。明日からの食事にも事欠くのは目に見えていた。公園に住みついた浮浪者が自分よりも裕福に見える。病院への道を辿りながら、房子は途方に暮れた。次々に房子を追い越していく男女の背中を見ながら、今の世の中で、明日の食べるものに困っている人間がいるだろうかと考えた。町は物に溢れ、人は空腹を耐えることを忘れたかのように振る舞っている。時々、板塀の上でないている野良猫でさえ丸々と肥っているではないか。
 自分は朝食を抜いた。良一にはひもじい思いをさせたくない。しかし、それも後何日のことか分からない。職場の昼飯を、人目を気にしなが、出来るだけ腹に詰め込む浅ましい自分の姿が目に浮かぶ。病人の残した飯を、隠れて握り飯にしているのを事務員のKに見つかった時の死んでしまいたいような恥ずかしさが生々しく蘇ってくる。Kは人の恥部を覗いたような好奇な目の色をしていた。
 犬の餌にと、取り繕ったが、激しく震える手が空しい言い訳を否定していた。
「犬やったらあそこに汁も残ってる」
 Kの口元に卑しい笑みが浮かんでいた。Kは夜勤の時の酒の肴を物色しに厨房に入ってきたのだろう。房子の前で冷蔵庫を開けるわけにもいかず、なんやかの噂話をしながら房子にまとわりついた。時々故意か偶然か分からぬように房子の身体に触れた。
「なんかいやなことがあったら、わしに相談しいや。二十年もおるんやから、ここでは顔もきくんや」
 顔をよせながら、小さな声で言う。
 房子は帰り支度を始めた。白い上っぱりを脱げばそれで終わりだ。
「おさきに」と、言って、厨房の裏戸を押す時、横目で背後を窺うと、Kが冷蔵庫を開け首を突っ込んでいる姿が見えた。噂と中傷を日々の食事のようにしている同じ職場の女たちの顔が浮かんだ。自分が噂の種にされるかも知れない。
「なんかええもんありました」
 帰ったと思っていた房子の声にKは急いで冷蔵庫の戸を締めた。To be continued