もう一つの風景
4
「濡らしてもうて、すんません」
傘を揺らしながら、駆けてくる。
小柄な平凡な顔だちの三十過ぎの女性が、本当に済まなさそうに自転車を停めた庄三を見上げていた。
「今、降ってきたさかい、そんな濡れてまへん」
荷物を下ろす庄三の動きに合わせて敏子の持つ傘が移動する。その動きに導かれるように庄三は敷居を跨いでいた。
庄三の目に最初に飛び込んできたのは居間の花嫁道具だった。長持と鏡台、小さなミシン、どれもが華やかで、そして、初々しい恥じらいを含んでいた。
「敏子さん、おめでとう、やっと」
「やっと、そのあとはなんやろ」
いたずらっぽい目で庄三を見る。庄三は言葉に詰まって、目を逸らした。
「もういじめんとこ。せやけど、残念ながらうちのとは違うねん」
「あんたと違う?」
「弘之にお嫁さんが来ますねん」
敏子は軽るやかに居間に上がり、タオルを持ってきた。
「不断はなんにも買わへんのに、得手かってばっかり」
十数年前も単に客としての付き合いだった。しかし、奥野という名から敏子を連想したのはそれだけの理由がある。
「まあ、かけて下さい。お茶をいれますから」
上り框に座布団を置いて敏子は言った。
「気いつかわんといて、もう、帰りますよって」
「まだ、えらい降りや」
雨音は一段と激しくなっている。
「それやったら、一寸だけ雨宿りさしてもらいまっさ」
庄三は花嫁道具に隠れた仏壇の方をみた。敏子の両親を彼は知らない。しかし、ふと、仏壇の前で手を合わせたい気になった。
そして、赤の他人がすることではないと思いとどまった。
敏子はお茶を庄三にすすめた。
「用事しといて、わしはお茶よばれてますから」
「用事はあらしませんね。お客さんを待ってましたんやけど、さっき電話で遅れる言うてきました」
しかし、二人にとりたてて話すことはない。暫くして、敏子は台所へ立っていった。
あの日も細かい雨が落ちていた。肌寒い頃だった。晩秋か春の初めか、まだ季節が行きつ戻りつしていた。
雨合羽に一日の御用聞きと配達に疲れた身体を包み、自転車から降りた庄三は、店から出てくる少女に出会った。
「毎度おおきに」
買い物袋を脇に挟んで庄三に会釈を返した。庄三には中学生にみえた。
「お嬢ちゃん、運びますわ」
「大丈夫です。そんなに重いことないし」
庄三は店の中に向かって叫んだ。
「傘や、傘もってきて」
「おじさん、ほんまにいけますよって」
「あんたはお客さんや、気つかうことあらへん」
「家、遠いし」
「かまへん、かまへん。おっちゃんも商売や」
無理矢理に瓶を取り上げて荷台に積んだ。妻が男物の黒い大きな傘を差し出すのを一寸睨んで受け取った。
「きらくに電話してもろたら何時でも配達しまっせ」
「うちは、そんなによう買わへんし」
「商売は牛のよだれや。ぼちぼちと、ちょっとずつ、とぎれんようにやっていかな。せやから、そんなこと気にせんといて。口(こう)銭(せん)もうてんのはこっちやから。それに醤油を一升瓶で買うてくれはんのやから上得意さんや」
「ちょとずつ小さな瓶に移して使こたらこの方が得やから」
三丁目の路地を大きな傘にスッポリと包まれて少女は下を向きながら歩いた。
「すんません。助かりました」
少女は家の前で大人びた口調で言った。
それから、月に一、二度、少女から注文があった。僅かな品物でも庄三は気軽に届けた。
そのうち、少女は中学生ではなく、働いていることが分かった。五つ違いの小学五年生の弟との二人きりの生活だった。
近くまで御用聞きに来たついでに寄ったことがある。「毎度おおきに」と言って、引き戸を開けると、姉弟は小さな卓袱台に向かい合って昼食をとっていた。おかずは二人の中程に置かれた小さな一皿の鰹節だけだった。箸を持ったまま、庄三を見た敏子の目に驚きの表情が流れ、瞬時に憎悪の色がよぎった。彼女の目の色は怒り狂った動物の目とよく似ていた。次の瞬間、彼女は体で食卓を隠した。
雨の音が聞こえなくなった。
腰を上げ引き戸を少し開けると、霧のような細い雨の粒が風に弄ばれながら、路地に落ちていた。
「ほんなら、おおきに、雨も小降りになったし、帰ります」
奥から急いで敏子が出てきた。そして、上がり框に正座して頭を下げた。
「ほんまにすみませんでした」
おじぎを返し、背を向け一歩進み、庄三は急に振り返った。
顔を上げた敏子と視線が合った。
「他人が余計な事言うと思わはるやろけど」
庄三は踵を返し、少しの間言葉に詰まった。
「ほんまによう頑張らはった。親御さんもきっと喜んだはるやろ。家も立派に続く、みんなあんたの力や」
「そんなたいそうなことうちはしてしません」
「これからは自分の幸せを考えな」
「そうですね。せやけど、なんか今は、肩が軽うなった」
「弘之はんにおめでとう言うといて」
「ええ、あの子おじさんにようなついてたから、喜ぶと思います」
「あのころは小学生やったもんなあ。大きいならはったやろ。それはそうと、敏子さんはええ人いたはんの」
「そんな人いてしません」
目を伏せて恥ずかしそうに肩を窄めた。
庄三は自転車に乗り路地の光景を懐かしむようにゆっくりと走った。ここ十年以上自分の中から抜け落ちていた風景だった。そして、この路地と同じように、幼い姉弟の生活も自分の中から抜け落ちていた。
家の前で、一人でボールを弄んでいる弘之を公園に誘った。
「ぼんと公園でキャッチボールしてきまっさ」
「うちもつれて行って」
急いで外へ出てきた敏子は、
「こんなええ天気に家にいるのもったいないわ。おじさんまぜてもうてもかまへん?」
「ええよ、三人のほうがおもろい」
「弘之は?」
「姉ちゃんドンやけどまあええわ」
そう言って、一目散に走り出した。
後を敏子が追いかける。
追憶の姿は消えた。
四人連れが前方から歩いてくる。若い男女と年配の夫婦らしい組み合わせだった。
顔が見える処まで近づいた時、若い男が弘之だと分かった。
子供の時の面影を残しながら立派な若者に成長していた。彼の隣の現在風な顔だちの赤いワンピースの女性が婚約者で、後ろの夫婦は彼女の御両親かもしれない。
若い二人は華やかな雰囲気をかもし出している。女性の笑みは、世の中の幸せを一人占めているように見える。
擦れ違う時、庄三は弘之に会釈をした。彼は視線を外して庄三を無視して通り過ぎた。
思い出したくない過去かもしれない。
懐かしさと淋しさの入り交じった気持ちになった。
To be continued