もう一つの風景
6
笑い声の絶えなかった居間はひっそりと静まり、敏子の気配だけが微かに漂っている。
弘之が、佐知子とその両親を送って行って、敏子と後片付けの済んでいない食卓だけが残された。
何もする気がしない。何時もは少しでも散らかっていると、気が落ち着かない性分なのに、食卓を片付けるのも億劫だった。
―これでよかったんだ―
何度も自分に言ってきかせるが、すぐに何故か空しさが身体の中を通り抜ける。
二階に弘之夫婦が住む。トイレと小さな台所を造った。敏子は居間の片隅に寝床をこしらえることになる。
そんな生活があと一月もすれば始まるのだ。佐知子がどのような人か分からない。今は何もかもを隠しているのかもしれない。私だってそうだ。よく思われたいとばかり考え、計算し、一つの言葉にも気をつかっている。
今日は、三人の他人に自分が試されているような気がした。
あの両親は何故、父母の事を執拗に聞いたのだろう。死んだ病気がなんであっても、今、降ってわいたような他人がとやかくいう事ではない。
父が死んだのは敏子が小学校の三年の冬だった。三才の弘之は、葬儀の客の間を、はしやぎまわっていた。
お父さん? 弘之は全く覚えていない。私も僅かな記憶しかない。
一人二人と通夜の客が去り、居間は何時の間にか母と私だけになった。
「そんな黒っぽい服、はよ着替え。弘之は?」
「二階で寝てる。さっき、おかあちゃんが抱いて上がったやん」
ふと、目を食卓の下の畳に落とす。母が座っていたのはその辺りだったように思う。
「ちょっと、こっちへおいで」
母は膝の前を指で差した。言われるままに私はチョコンと座った。無言で母は私を抱き竦めた。
母の乳房が私を包み込むようだった。息苦しい程甘い匂いがした。私の項にあったかいものが一つ二つと落ちてきた。その母も、七年も経たないうちに膵臓癌であっという間に亡くなった。私達のために先を急いだような死に方だった。長患いにならなかったので、お金は残っていた。通帳が二冊。私と友之の名義だった。
なにかをふっきるように敏子は食卓を片付けはじめた。
―あの料理で良かっただろうか、満足して貰えただろうか?―
―お酒が結構減ったから、いやな思いはさせていないだろう―
―それよりも、この家にびっくりしたかもしれない。腰を落ち着けるなり、部屋の隅々を細かく見ていた。佐知子さんも、そんな二人の様子が気にかかるようだった―
―まあいい、そんなことを気にすることはない。高校を一年で中退して、なにも贅沢せずに、それどころか、爪に火をとぼすような生活をして、ここまでやってきたのだから―
―三十才か……―
ふと、手が止まる。
―弘之の重荷になるのはいやだ。しかし、三人とも働きにでるからすこしはましだろう―
―だがそんな状態が長く続くだろうか。いや、長く続けば続く程私には取りかえしのつかないことになる―
―美人でもないし、なんの取り柄も私にない。仕事だって、高卒の女の子が一月で出来る種類のものだ。この前結婚でやめて行った子が言ったもんだ―
「奥野さんほんとに偉いと思う。十年以上もこんな仕事ようしてはる」
もともと気にくわない子だったから、気にはならなかったけれど、
「ええねえ、そんなふうにお仕事考えられるんは、それだけでも幸せや」
と、本心から言った。
「なんやおったんかいな、只今いうても返事あらへんから、どっか行ったんかおもた。水、頂戴」
弘之が何時の間にか玄関に立っていた。
「行くとこなんかあらへん。それよりも、えらいええ機嫌になって」
「ほんま、ちょっと呑みすぎたわ」
「お父さん、お母さん、機嫌よう帰らはった」
「機嫌よすぎるわ。ほんまあのおっさん、ものごつう呑みよる。さっきも駅前で、もうちよっとやろかやて、お母さんに睨まれとったわ」
「おっさんやてよう言うわ。さっきまで、お父さん、お父さん言うて、猫撫で声だしてたんは、どこのどなたやろ」
「まあ、まあ、深くは詮索しない」
弘之は旨そうに一気に水を飲み干した。
「お父さんか、よう分からんわ。よう覚えてへん」
居間の真ん中でひっくりかえって天井を見ながら、弘之は言った。
「せやけど、その分ねえちゃんが苦労したんは知ってる」
不意に涙が出た。今まで何処かで堪えていたものが滴となって流しの水に紛れた。