創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

連載小説「もう一つの風景(5)」

2016-02-15 07:05:29 | 創作日記
もう一つの風景



気をとりなおして、先程から考え始めたことを思い出した。三十過ぎで独身の男、その条件を満足させる者さえ思い浮かばない。
 だれもいてへんな。これから気にかけといてみつけるようにしょ。
 その時、急に房子の言葉を思い出した。
―そうですね、そのほうは、ほんまにねんねで、三十過ぎてもその気がないんかどうか。庄三さんええ人いてしませんやろか―
 何時だったか忘れたが、確かにそう言っていた。
 帰りに憩いの家に寄ってみよう。
 歳をとるとなにかとせっかちなる。だが、善は急げということもある。
 房子の姿はなかった。中に入ると顔知りが3、4組将棋をさしていた。
「どうしたんや、えらい息きらさはって」
「房子さん、もう帰らはったんか」
「帰らはったで、なんか用あったん」
「いや、別にたいした用やない」
「おかあちゃんに言うで、おかあちゃんに。息きらして、これはあやしい、恋の芽生えかあああと、王手」
 自転車を車庫の横に置いて、肩の雨を拭った。粟粒程の水滴が掌をそっと濡らした。
「えらい遅かったんやね。心配してたんや」
 居間でテレビを見ていた妻が画面から目を離さないで言った。
 庄三は答えるのも億劫だった。
 伸子は庄三に気が付かないかのようにテレビに見入っている。
 何か月も毎日続くテレビドラマの何が面白いのかと思う。彼女等のあの真剣な目は俺には理解出来ないと思った。伸子の手は時々食卓の煎餅に伸び、そして、凄まじい音をたて始める。
 コマーシャルになると、伸子はやっと庄三の方を見た。
「敏子さん元気にしたはった」
「ああ」
「敏子さんって誰」
 知らない名前に妻が不安な顔で聞く。
 伸子が説明すると、直ぐに何くわん顔をしてテレビに目を移した。
「弟さんが結婚しはるらしい」
「敏子さんは?」
 ドラマが始まった。伸子はテレビに顔を向けた。
「まだ一人や」
 伸子の横顔に喜色が浮かんで、流れた。
 庄三は居間を出て、階段を上がり、娘夫婦の住む三階のべランダに出た。
 洗濯物が乾く場所がここしかないのは、ここに立って周りを見ればよく分かる。隣の家の屋根瓦がすぐ目の下にある。
 雨に洗われた漆黒の瓦に、低く垂れた曇天の間から差し込む数条の物憂い光が落ちていた。
 高層のマンションや建物も見えるが、数は小さな家が圧倒的に多い。それらは、流れ、淀む生活の海を感じさせる。目を凝らすとそこに動く人々がぼんやりと見えてくる。やがて、彼等の動作は明確になり、一人一人の生活が鮮やかに海の粒子となる。
「こんなとこにいたはりましたん」
 妻の芳江が背後から声をかけた。
「みんなお茶にしょいうてまっせ」
「子供らは?」
「塾や、ピアノやいうて、忙しいこっちや、休みのうちなとゆっくりしたらええのに」
「生駒山見えんなあ」
「そらあ、こんな天気やったら」
 いつの間にか庄三と肩を並べて芳江は言った。
 新緑の頃には山全体が輝く緑になり、いつもは遠く離れているのに、すぐ近くまで迫ってくる。今、山は、まだ、春の霞のなかにあった。
「ああ、あとなんぼ生きても二十年か」
 ふと、呟いて、二十年前、同じように倍の年数を数えていたように思う。死ぬ間際まで生きる時間を数えて、次に来る死の瞬間なんかをてんで信じていないのが人間かもしれない。また、そうありたいと庄三は思う。
「お茶、いまええは。あとでよばれるいうといて」
「ほんなら、あとで一諸にしましょ」
 芳江もベランダの柵に身を預けて言った。
「毎日毎日やったらそう変わらんけど、ひょいと、昔のこと思い出したら、なんか別の所にいる気がして」
「おれは反対に思うわ。これで変わるぞ、これで変わるぞ思うても、なんにもかわらへんだ気がする。歳とってから伸子ができた時も、信也さんが養子に来た時も、なにもかもが明日から変わると思うたけど、自分の寝所にはいったら、なあんや前と同じや、しようもないと思うた」
「男の人って、なんやかや理屈つけな生きていかれへんのやろか。うちは、今お父さんが言わはった時、なんもかも変わってしもた」
 芳江は真白になった髪を指ですいた。
「伸子は段々お前に似てきたなあ。顔や形と違うて、仕草や、考えてることが」
「ほんまに、なんかいやになりますわ」
 庄三も伸子や孫の仕草や心の動きに自分を見ることがある。その時、決まって複雑な気持になる。
 実体のない自分が、その種の途切れる迄続いて行く。ふり返ればその延長に自分も入る。自分の身体の中にも様々な人間が生息していると思うとますます自分が何物なのか分からなくなる。庄三が今、考えている事は、彼の中の誰かが考えている事かもしれない。
 不安になって、ふと、隣の妻を見た。そして、芳江を他人として受け入れると、安らぎに似た気持になった。
 今、自分のなかに居る人間も、これから続いていくであろう自分も、妻という他人との営みの中でのみ存続出来るのだ。
「黙ってなに考えたはりますの」
「しょもないことや。お茶よばれよか」
 居間にいるのは伸子だけだった。
「なにしてんのお茶冷めてしもた」
「信也さんは?」
「配達にいかはった」
「よっこらしょ」と、庄三は声をかけて座った。
「おじいちゃんも、何か趣味もたなあかんな」
 伸子は冷めた茶を注ぎながら言った。
「わしだけやない、ばあさんもや」
「なにいうてはりまんの、私はまだ現役の主婦や」
「そうや、おかあちゃんは」
「なんや、女どものの集中攻撃かいな」
「ゲート・ボールはどうなりましたん」
「あんなもんしんきくそうてあかん、まあ、そのお陰で面白いもん見たけど」
「なんですのそれ」
「川口の後家はんまた男代えたらしい」
「ゲート・ボールしながらそんなん見たはりましたん。悪い趣味や」
 伸子は話に興味がないというふうに子供の服にアイロンをあてている。
「伸子も人事や思うっとらあかんで、気つけな」
「うちの人にそんな果斐性があったら」
 くすぐるんはこなへんにしとこ、一応忠告はしたんはしたんやから。
「今日は何曜日や?」
「土曜日」
 お茶の片付けと夕食の準備に台所にたった芳江が答えた。この時間になると少しは客も多くなる。伸子は店に出ずっぱりになり、庄三だけが居間に取り残されたた。
 一日の終わりが近づいていた。今日もなんもなかったな。それが一番やと納得しながら煙草を取り出す。信也は煙草を吸わない。孫の前では煙草を吸うのも遠慮するから今のうちにと火をつける。
「おとうさん、洗濯物取り入れてくれはります」
 妻の声に「よっしゃ」と、立ち上がった。 その時、何か忘れ物をしたような気がした。今日何か考えていた。もう一度、灰皿の中の吸い殻の火が消えているのを指先で確認しながら、物忘れの激しくなった自分が恥づかしいような、そして、情けないような気持になった。To be continued