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私立の中規模の病院、厨房に続く細い地下へのスロープを下りる。重い戸を引いて中に入ると、早出の調理師が働いている。男の調理師が三人、房子と同じ臨時のまかないの女が四人、その他に滅多に厨房に顔を出さないハイミスの栄養士が一人。調理師のSが鍋にぶつぎりの葱をほうりこみながら、栄養士の悪口を隣の若いNに何度も同意を促しながら喋っている。
ここには、些細な不満がいつも澱のように沈んでいる。自分の中にある形のない苛立ちが、他人の一寸した言葉や仕草に直結して吹き出してくる。噂もよく似た性質を持っている。誰と誰があやしいと一人が言うと、二人がつれこみホテルから出てくるのを見たと出所の分からない話がまことしやかに動き出す。噂のほうは、房子の知らない人の場合が多い。一日中、この厨房にいて、よく知っていると感心する。
房子が厨房から見るのは、職員の昼飯を並べる棚の間から、医者や看護婦や事務員らの職員が同一の昼飯を食べている光景だけだ。医師の名前も看護婦の名前も、職種さえ分からない職員も数多くいる。彼らも、おかずの並ぶ棚の向こうにいる房子の存在を一瞬たりとも考えたことがないだろう。病院にいながら、ここが病院だという気が全くしない。お粥や、減塩食、低カロリー食、肝の1、膵の1、患者の様々な食事を配膳しながらも、それらを食べる患者が自分とは全く無縁な人々に思える。それは、巨大な鍋で炊かれた汁やおかずが、人の食べ物と程遠く感じられ、それを食べる巨大な姿のない動物の胃袋を想像するのに似ている。
厨房の壁ごしに、狂ったように号泣する女の声とその声の背景のようにカラカラと小気味のいい音をたてて通りすぎるストレッチァーの音が聞こえる。食堂の横を通り、右に折れる、迷っても誰も足を踏み入れないであろうその通路の奥に霊安室がある。不思議な通路だ。普段はあることさえ気づかずに見過ごすことが多い。気づいても、何処にも抜けられないのが無意識に分かる。
今朝も誰かが死んだ。その時、ここが病院であることを突然意識する。患者の数病気があり、苦痛があり、そのなかには、忍び寄る死の跫音もあるのだろう。だが、房子の働く周りの光景はあまりにもそれらと無縁だ。そして、ここで働いている自分にも関係のないことだ。
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