武蔵坊弁慶像
人形町を散策していると緑道があり、その一角に武蔵坊弁慶の像が建っている。その横の掲示板に人形町の由来が書いてあります。
江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。
一般には人形遣いが多く住んでいたから人形町と名付けられたとされている。江戸時代においては、人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに面していたが、1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更されました。
江戸時代初期には、遊郭で有名な吉原(元吉原)が人形町通り東側の辺りにありました。「大門通り」はその名残である。
1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転したものです(新吉原)。
1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転したものです(新吉原)。