昨日に引き続き、今日は朝日新聞医療サイト・アピタルに連載中の内科医・酒井健司先生の最新号を読み、唸った。以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
「予後」の説明は難しい アピタル・酒井健司(2016年3月7日07時00分)
患者さんと医師の間で、病状の認識に大きなギャップが生じることがあります。たとえば「予後」。患者さんの容体(場合によってはいわゆる「余命」も含む)の今後の見通しのことですが、たいていは、患者さんのほうが楽観的な予測をしています。
私が経験したのは、病状が進んで肝臓が十分に働かなくなっている「非代償性肝硬変」という病気で入退院を繰り返している患者さんのケース。腎機能も悪化しつつあって、予後が数カ月ぐらいであろうと予測されるこの患者さんが、「あと10年も生きられれば満足です」とおっしゃったことがありました。
人の体のことですから100%正確な予測はできませんが、その患者さんの病状は、10年どころか5年も生きれば御の字といったところでした。もちろん、患者さんには折にふれ病状についてご説明しています。しかし、患者さんが希望されないのに、わざわざ明確に悪い数字を挙げることはあまりしません。
患者さんが病状について誤解をしている疑いがあるとき、医師はどのように説明するべきでしょうか? あるいは、みなさまが患者の立場であったとして、自分の主治医にどのように説明してほしいですか?
唯一の正解はありません。
医学的に正確な説明をするのは比較的簡単です。しかし、「残念ですが『10年生きる』というのはきわめて難しいと思います。5年生存率はおそらく10%以下。生存期間中央値は数カ月でしょう」という説明がはたして適切でしょうか。
よほど特殊なケース(患者自身が医療従事者で、医学的に正確な説明を希望していた場合など)でもない限り、私はそのような説明はしません。
誤解をあえて訂正しない、という方法もないわけではありません。理屈はいくらでもつけられます。「残りの命が短いとわざわざ思い知らせることが、患者さんのためになるのか」「死への不安を抱いたまま残された時間を過ごすぐらいなら、誤解したままのほうがいいのでは」「意図的に患者さんをだますわけではないから倫理的にも問題ない」等々。
しかしこれらの理屈は、医師が勝手に患者さんの気持ちをおしはかっているだけです。患者さんの真意を確認したわけではありません。
もしかしたら、患者さんは、死ぬ前にぜひとも会いたい人がいるかもしれません。あるいは、死への不安を克服できるだけの強い精神力を持っているかもしれません。それなのに、誤解を放置することは患者さんの不利益になります。
昔と違って現在ではがんの告知をすることが当たり前となりました。インフォームド・コンセントも浸透しています。患者さんと医師の間で病状の認識に大きなギャップがあった場合、医師はそのギャップを放置することはせず、ギャップを埋めようとします。その方法はケース・バイ・ケースです。
最初に挙げた患者さんには、
「○○さんはあと10年も生きられれば満足なのですね。10年か、それ以上も生きられるように、私もいろいろ考えてみます。しかし、以前からもご説明しているように、肝機能も腎機能も良くありません。ご承知のように、この病気は急激に悪くなることもあります。そのときへの準備と覚悟はしておいたほうがいいかもしれません」
というようなことをお話ししました。この患者さんは残念ながらその後、予想通り数カ月ぐらいで亡くなりました。私の説明が最善だったかどうかはわかりませんが、ご本人もご家族も納得されていたように思います。
(転載終了)※ ※ ※
10年生きられれば満足-その時はそう思っても、実際10年経過してみたら、いや、もう十分です、と言えるのかどうか。
現に私は再発治療を開始した際、5年間生きられれば・・・と覚悟した。それを思えば息子の高校卒業式、大学入学式ともに出席することが出来、成人式を迎え、二十歳になった息子を見ることが出来た。
5年をクリアし、8年もの間、生き長らえることが出来たのだからもう十分だろう、と問われれば、大学卒業は出来るのか、就職は出来るのか・・・、やっぱり我が眼で見たいと案じることは後を絶たない。
そう、予後の話は本当に難しい。私のように主治医に全幅の信頼を置いている場合、その人からの言葉はことのほか重いだろう。考えただけでも身がすくむ。
だからこそ、たとえ訊かれたとしても安易に余命などは言わないものだろうし、訊くつもりもない。それはやはり、自分の命の期限を突きつけられるのが怖いからに他ならない。
こうして長く治療を続け、いろいろな先輩たちの経過を知っている今、そうそう能天気には構えていられないのは重々承知している。人の身体は理論だけでは説明出来ないことも沢山起こるし、人によって経過は千差万別だけれど、どういう症状が出てくれば厳しいということもある程度は理解しているつもりだ。
ここまで長く再発治療を続けることが出来たのだから、あら、還暦だって楽勝だわ、とは決して思わない。
還暦まであと6年?とてもとても・・・である。4年後の東京オリンピック?それも目標に掲げるには長過ぎると思う。
出来るならば今までのように一日一日を積み重ねて、出来るだけ遠くの風景まで見てみたいけれど、実際あとどのくらいヘタッた脊髄が持ちこたえて治療が続けられるのか判らないし、脊髄が頑張ってくれたところで使用する薬が奏功する保障もない。
だから、これからの私の時間は本当に神様のプレゼント、新しく授かったサバイバルな時間だと思って今までにも増して大切に過ごしたい。
私自身がやりたいと思っていることはなるべくやりたい。自分自身が会いたいと思っている方にはなるべく会いたい(当然相手があることだから、先方から“No,Thank you.”と言われればそれでもなお、と無理強いをするつもりはないし、後追いはしない。)。常に自分の体調と相談しながら、自分の身体の声にしっかり耳を傾けながら。
あくまでも自分の人生、人からどう思われるかではなく自分がどうありたいか、どう生きたいのか、がポイントだと思っている。
実際のところ、どう言って頂けるのが一番納得出切るのだろう。想像するには難しい。その時が来るまで出来るだけ心穏やかに悲観的にも楽観的にもならずに過ごしていきたいと思う。
昨日のあのポカポカ陽気が嘘のように今日は凍えるほど冷たい雨の日になった。明日もお天気は良くないらしいが、定例の都心会議でもある。先月のように電車が遅れませんように。
※ ※ ※(転載開始)
「予後」の説明は難しい アピタル・酒井健司(2016年3月7日07時00分)
患者さんと医師の間で、病状の認識に大きなギャップが生じることがあります。たとえば「予後」。患者さんの容体(場合によってはいわゆる「余命」も含む)の今後の見通しのことですが、たいていは、患者さんのほうが楽観的な予測をしています。
私が経験したのは、病状が進んで肝臓が十分に働かなくなっている「非代償性肝硬変」という病気で入退院を繰り返している患者さんのケース。腎機能も悪化しつつあって、予後が数カ月ぐらいであろうと予測されるこの患者さんが、「あと10年も生きられれば満足です」とおっしゃったことがありました。
人の体のことですから100%正確な予測はできませんが、その患者さんの病状は、10年どころか5年も生きれば御の字といったところでした。もちろん、患者さんには折にふれ病状についてご説明しています。しかし、患者さんが希望されないのに、わざわざ明確に悪い数字を挙げることはあまりしません。
患者さんが病状について誤解をしている疑いがあるとき、医師はどのように説明するべきでしょうか? あるいは、みなさまが患者の立場であったとして、自分の主治医にどのように説明してほしいですか?
唯一の正解はありません。
医学的に正確な説明をするのは比較的簡単です。しかし、「残念ですが『10年生きる』というのはきわめて難しいと思います。5年生存率はおそらく10%以下。生存期間中央値は数カ月でしょう」という説明がはたして適切でしょうか。
よほど特殊なケース(患者自身が医療従事者で、医学的に正確な説明を希望していた場合など)でもない限り、私はそのような説明はしません。
誤解をあえて訂正しない、という方法もないわけではありません。理屈はいくらでもつけられます。「残りの命が短いとわざわざ思い知らせることが、患者さんのためになるのか」「死への不安を抱いたまま残された時間を過ごすぐらいなら、誤解したままのほうがいいのでは」「意図的に患者さんをだますわけではないから倫理的にも問題ない」等々。
しかしこれらの理屈は、医師が勝手に患者さんの気持ちをおしはかっているだけです。患者さんの真意を確認したわけではありません。
もしかしたら、患者さんは、死ぬ前にぜひとも会いたい人がいるかもしれません。あるいは、死への不安を克服できるだけの強い精神力を持っているかもしれません。それなのに、誤解を放置することは患者さんの不利益になります。
昔と違って現在ではがんの告知をすることが当たり前となりました。インフォームド・コンセントも浸透しています。患者さんと医師の間で病状の認識に大きなギャップがあった場合、医師はそのギャップを放置することはせず、ギャップを埋めようとします。その方法はケース・バイ・ケースです。
最初に挙げた患者さんには、
「○○さんはあと10年も生きられれば満足なのですね。10年か、それ以上も生きられるように、私もいろいろ考えてみます。しかし、以前からもご説明しているように、肝機能も腎機能も良くありません。ご承知のように、この病気は急激に悪くなることもあります。そのときへの準備と覚悟はしておいたほうがいいかもしれません」
というようなことをお話ししました。この患者さんは残念ながらその後、予想通り数カ月ぐらいで亡くなりました。私の説明が最善だったかどうかはわかりませんが、ご本人もご家族も納得されていたように思います。
(転載終了)※ ※ ※
10年生きられれば満足-その時はそう思っても、実際10年経過してみたら、いや、もう十分です、と言えるのかどうか。
現に私は再発治療を開始した際、5年間生きられれば・・・と覚悟した。それを思えば息子の高校卒業式、大学入学式ともに出席することが出来、成人式を迎え、二十歳になった息子を見ることが出来た。
5年をクリアし、8年もの間、生き長らえることが出来たのだからもう十分だろう、と問われれば、大学卒業は出来るのか、就職は出来るのか・・・、やっぱり我が眼で見たいと案じることは後を絶たない。
そう、予後の話は本当に難しい。私のように主治医に全幅の信頼を置いている場合、その人からの言葉はことのほか重いだろう。考えただけでも身がすくむ。
だからこそ、たとえ訊かれたとしても安易に余命などは言わないものだろうし、訊くつもりもない。それはやはり、自分の命の期限を突きつけられるのが怖いからに他ならない。
こうして長く治療を続け、いろいろな先輩たちの経過を知っている今、そうそう能天気には構えていられないのは重々承知している。人の身体は理論だけでは説明出来ないことも沢山起こるし、人によって経過は千差万別だけれど、どういう症状が出てくれば厳しいということもある程度は理解しているつもりだ。
ここまで長く再発治療を続けることが出来たのだから、あら、還暦だって楽勝だわ、とは決して思わない。
還暦まであと6年?とてもとても・・・である。4年後の東京オリンピック?それも目標に掲げるには長過ぎると思う。
出来るならば今までのように一日一日を積み重ねて、出来るだけ遠くの風景まで見てみたいけれど、実際あとどのくらいヘタッた脊髄が持ちこたえて治療が続けられるのか判らないし、脊髄が頑張ってくれたところで使用する薬が奏功する保障もない。
だから、これからの私の時間は本当に神様のプレゼント、新しく授かったサバイバルな時間だと思って今までにも増して大切に過ごしたい。
私自身がやりたいと思っていることはなるべくやりたい。自分自身が会いたいと思っている方にはなるべく会いたい(当然相手があることだから、先方から“No,Thank you.”と言われればそれでもなお、と無理強いをするつもりはないし、後追いはしない。)。常に自分の体調と相談しながら、自分の身体の声にしっかり耳を傾けながら。
あくまでも自分の人生、人からどう思われるかではなく自分がどうありたいか、どう生きたいのか、がポイントだと思っている。
実際のところ、どう言って頂けるのが一番納得出切るのだろう。想像するには難しい。その時が来るまで出来るだけ心穏やかに悲観的にも楽観的にもならずに過ごしていきたいと思う。
昨日のあのポカポカ陽気が嘘のように今日は凍えるほど冷たい雨の日になった。明日もお天気は良くないらしいが、定例の都心会議でもある。先月のように電車が遅れませんように。