散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2月24日 松岡洋右が国際連盟総会を退場する(1933年)

2024-02-24 03:00:26 | 日記
2024年2月24日(土)

> 1933年(昭和8年)2月24日、日本代表団の主席全権として国際連盟の総会に出席した松岡洋右は、45分にわたり英語で日本の満州国設立の正当性を主張した。しかし、票決の結果42対1で日本の立場が否決されると、用意してきた宣言書を読み上げ、閉会宣言の前に会議場から退場した。
 実は、この時点で松岡には国際連盟脱退という考えはなかった。あくまで日本の主張を認めさせようと努力したのである。したがって、圧倒的大差で否決された結果に落胆し、わざわざ欧米を大回りして二か月後に帰国する。ところが松岡を待っていたのは、国民の熱狂的な歓迎であった。
 東京日日新聞 は、「松岡全権帰る」という記事の中で、松岡が堂々と英語で日本の立場を披瀝したことを賞賛し、日本の主張は退けられたものの、「かくして松岡は凱旋将軍になった」と報じている。失意の松岡は、期せずして国民的英雄となったのである。
 国際連盟脱退の話は、松岡が欧米滞在中に着々と国内で進んでいた。 3月8日の閣議で脱退の方針が決定され、 3月27日、枢密院本会議は満場一致で脱退を決議。直ちに連盟事務総長に脱退通告文が送られたのである。こうして国際連盟を脱退した日本は、これ以降、国際的に孤立の道を歩むことになる。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.60


 このあたりのことは、立ち入り始めるとそれこそ際限がなくなる。あっさり切り上げるに限るが、返す返すも昭和初期の日本は愚かな、もったいないことをしたものだ。もっとも、愚かだのもったいないだのと後から言うのはたやすいことで、難しいのは今の時代に自分たちが手を染めている「愚かなもったいないこと」を正しく認識し、勇気をもって修正することである。
 松岡洋右という人物の語学と弁舌の際は傑出しており、相当の見識家でもあった。パーキンソン病で機能しなくなる以前のヒトラーに対し、気後れすることなく論陣を張れたのは、モロトフとマツオカだけだったというドイツ人通訳の観察がある。満州の権益のみを残して中国からは全面撤退すべしとの主張や、対米戦争を不可とする見通しなどは現実的なもので、日米開戦の報を聞いて「三国同盟締結は自分一生の不覚」と悔やんだとも言われる。
 一方では、ドイツがまもなくソ連と開戦するというチャーチルからの超重要情報を握りつぶすなど、個人プレーに走って国益を損なった面も多々記されている。自身の弁舌に酔って思路が逸脱する危険な傾向については、知る人も多かったらしい。そうした人物を全権代表に立て、しかも本人の知らぬところで連盟脱退を決定したというあたり、複雑怪奇で理解しがたいのは国際政治よりも国内力動の方である。
 戦後はA級戦犯として訴追されたが、結核の悪化により米軍病院から東大病院に移され、公判中に病没した。

松岡 洋右
1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日

Ω

バラの棘

2024-02-23 08:02:42 | 日記
> リルケは最後白血病で亡くなったが、それは自らが愛したバラの棘で指を刺した事が原因だ。

M.A.様
 コメントありがとうございます。そうだったんですね。
 棘の刺し傷は傷口が小さい割に奥が深く、おまけに雑菌の感染を起こしやすいでしょう。それでも健康時にはすぐに治るところ、白血病による免疫力の低下があってこじれたんでしょうね。
 そのバラに対する讃頌が、あの墓碑銘ということでしたか。
 重ねて、ありがとうございました。

リルケの墓

Ω


2月23日 リルケが『オルフォイスへのソネット』を書き上げる(1922年)

2024-02-23 03:36:51 | 日記
2024年2月23日(金・祝)

> 1922年2月23日、ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケは、滞在先のスイスのミュゾットの館で『オルフォイスへのソネット』を完成した。この作品は、55のソネットから成る長大なものだが、その前半(第一部)は2月2日から5日までの4日間に一気に書かれ、後半(第二部)は15日から23日の間に書き上げられている。この二十日余りは、ドイツ文学史上でも特筆されるべき、創造の嵐の期間であった。
 というのは、この間にリルケはもうひとつの代表作『ドゥイノの悲歌』も完成しているからだ。こちらは『オルフォイス』とは対照的に難産で、最初に着手されたのは、1912年の初頭までさかのぼる。アドリア海沿岸のドゥイノの館で書き始められたため、『ドゥイノの悲歌』と名づけられている。その後、第一次大戦による中断なども加わり、1922年の完成までに十年以上を費やしているのである。
 『悲歌』完成の喜びを、リルケは知人への手紙の中で、こう表現している。「私の手はまだ震えています。……食事のことなどは片時も考えられませんでした。誰がその間私を養ってくれたか、不思議なくらいです。けれども、いま悲歌はあるのです、あるのです」 と。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.59 


ライナー・マリア・リルケ
(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)

> オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。
 父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが9歳のとき母は父のもとを去っている。
 母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを5歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情はのちルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった…

> (1902年以降のリルケは)図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けた。ことにロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事とは、リルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」を始めとする、対象を言葉によって内側から形作ろうとする作風に向かわせた。またリルケが直面したパリの現実と深い孤独も、その詩風と芸術や人生に対する態度を転換する大きな契機となった。
 その末に辿りついた成果が1907年の『新詩集』である。またこの転換を端的に示すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」というリルケの言葉が残っている。リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地でロダンについての講演旅行なども行なった。その後誤解がもとで不和となったものの、リルケのロダンに対する尊敬は終生変わることがなかった。

 『マルテの手記』も『オルフォイスへのソネット』も『ドゥイノの悲歌』も、どれ一つとして一行も読んでいないし、たぶんこれからも読まないと思うが、リルケという現象には興味を引かれる。
 「対象を言葉によって内側から形づくろうとする」とは、どんな作風なのだろう。リルケはロダンからそれを学び、そのロダンはダンテの熱烈な愛読者だった。リルケは一方では1899年にロシアに旅して71歳のトルストイと出会い、その人となりやロシア民衆の素朴な信仰心に深い影響を受けている。フランスではジッドと交友を結び、エル・グレコに傾倒してスペインを旅するなど、全ヨーロッパの空気を吸って才能を伸ばしていった。俳句にも関心を示した時期があるという。
 裕福で自由に旅行できたというわけではない、1901年に彫刻家クララ・ヴェストホフ(1878-1954)と結婚して一女を儲けながら、貧困のために同居できない始末だった。そのうえの旅行癖だから、妻子とは離別することにならざるを得ない。生活者としては破綻している。
 晩年はヴァレリーの翻訳に精力を傾け、健康を害してサナトリウムに入り、最後は白血病で亡くなった。遺言によって墓碑銘に指定されたのが、以下の詩である。いったいどんなゴールに到達したのだったか。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel Lidern.

薔薇よ、おお純粋なる矛盾よ、
かくも多くのまぶたの下に 誰の眠りも宿さぬことの喜びよ


Ω


2月22日 天正遣欧少年使節団が教皇グレゴリウス13世に謁見(1585年)

2024-02-22 03:29:04 | 日記
2024年2月22日(木)

 1585年(天正13年)2月22日、日本からやってきた四人の少年使節が、教皇グレゴリウス十三世に謁見した。彼らは九州のキリシタン大名大友宗麟、 大村純忠、有馬晴信の名代として1582年(天正10年)2月に長崎を出航した。
 この少年使節団は、当時のイエズス会の東インド巡察士ヴァリニャーノ神父の計画したものだった。彼は、長旅に耐えてヨーロッパに到着した少年を見れば、教皇並びに教会の人々がイエズス会の働きに感銘を受け、多くの資金を調達できるだろうと考えた。また、文明の進んだヨーロッパの様子を、帰国後に少年たちが伝えれば、日本での布教がやりやすくなると思ったのだ。ヴァリニャーノは、イエズス会の学校でキリスト教を学んでいた少年の中から、見目がよく領主と血縁のあるものを選んで、使節団に仕立て上げたのである。
 ヴァリニャーノの思惑は予想以上に功を奏し、使節団は日本の王子として各地で歓待を受けた。教皇も大きな感動をもって彼らを迎えたが、ひと月もたたずに亡くなったため、引き続き新教皇シスト五世の歓待を受けることになった。少年使節団の四人は、教皇を選出するコンクラーベに居合わせた史上初の日本人ということになるだろう。
 出航時十四、五歳であった彼らが無事大任を果たして帰国したのは八年後であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.58


 この項の書き方には少々違和感がある。
 四人の少年は「見目がよく領主と血縁のある」という理由だけで選ばれ、分不相応な使節団に「仕立て上げ」られたわけではない。ヴァリニャーノは日本人の能力を高く評価しており、セミナリヨに集まる秀才たちの中から信仰理解においても学芸においても優れたものを選んで使節団を構成した。四人のうち原マルチノはとりわけラテン語に堪能で、道中でたびたび見事な弁舌を披露したほか、洋書の翻訳・出版にも携わっている。名士の家系ではあるが領主の血縁ではない。
 彼らであれば本場ヨーロッパのどこへ出しても誇るに足り、出会ったヨーロッパ人たちが瞠目して日本と日本人の価値を知るに違いないことを、ヴァリニャーノは確信していたのである。果たしてその通りになった。
 彼らの唯一最大の誤算は、使節団の派遣を全面的に支援し、ローマ教皇との使節交換によって国際社会に名乗りを挙げることを目ざしていた織田信長が、使節団出発の4か月後に本能寺で討たれたことであった。
 1587年(天正15年)には秀吉の伴天連追放令が布告され、出発時とは比すべくもない寒々とした逆風の中、1590年(天正18年)四人は長崎へ戻ってきた。

伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面

1586年にアウグスブルグで印刷された天正遣欧使節の肖像画。
タイトル「日本島からのニュース」(京都大学図書館蔵)

左上・中浦ジュリアン、中央・メスキータ神父
右上・伊東マンショ
左下・原マルチノ、右下・千々石ミゲル

Ω

雨水から知る旧正月

2024-02-21 23:17:37 | 日記
2024年2月21日(水)

 大事なことを忘れていた。雨水は旧正月の目印でもあるのだ。

> 旧正月とは旧暦の正月のことで、その年によって日にちは異なります。二十四節気の雨水(新暦2月19日頃)の直前の朔日(新月)が旧暦の元日となり、新暦では年によって1月22日〜2月19日までの間を移動することになります。朔日を元日として始まる新年を大正月といい、15日の望の日(満月)を小正月といいます。旧正月は、中国では春節と呼ばれ、現在でも新年を祝う行事が新暦の正月よりも盛大に行われます。旧正月を新年として祝う習慣は、韓国や台湾、ベトナム、モンゴルでも見られます。

 今年の場合、雨水直前の朔日は2月10日、これが今年の元日で、2月24日が小正月ということか。
 月齢とからめて年々移動する決め方が連想させるのは、教会暦のイースター(復活祭)である。こちらは「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」で、最も早くて3月22日、最も遅くて4月25日とかなり幅がある。1984年のイースターは4月22日とずいぶん遅かったが、おかげで大雪の降った厳冬後に遅れていた近辺の桜が、あたり一面一斉に開花したものだった。
 両者はいずれも太陽暦と太陰暦の組み合わせである。イースターは春分と満月だから一目瞭然。一方、二十四節気は一年すなわち太陽の公転周期を24分割したものだからやはり太陽暦の系列であり、「雨水の前の朔日」という旧正月の決め方もまた、太陽暦と太陰暦の組み合わせになっている。
 もっぱら太陽の運行によって固定された一月一日は簡便で合理的だが、年によって揺れ動く旧正月にはまた別の親しみがある。アジアの伝統への表敬を兼ね、来年からは個人的に旧正月を祝ってみようかな。おっとまだ遅くない、24日、満月の土曜日が今年の小正月なのだった。
 その次の満月は春分の日を過ぎた3月25日の月曜日、これがイースターのリマインダーとなる。



Ω