散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2月21日 トレヴィシックが世界初の蒸気機関車を走らせる(1804年)

2024-02-21 03:52:01 | 日記
2024年2月21日(水)

> 1804年2月21日、イギリスの機械技術者、リチャード・トレヴィシックは開発した蒸気機関車「ペナダレン号」に5両の車両をつなぎ、鉄10トンと70人の乗客を乗せて、マーサーティドヴィルから約14.5キロの距離を走行した。途中煙突部分が低い橋にぶつかって破損し、その場で修理したという。所要時間はおよそ4時間5分だった。
 トレヴィシックは鉱山会社のボイラー開発技師で、1801年蒸気自動車を開発、1803年には改良型蒸気自動車で、ある程度の走行実績を上げていた。
 当時のウェールズは製鉄業が盛んで、鉄鉱石や石炭の運搬に鉄道馬車を使用していた。これはレールの上を走る馬車で、重量物を運ぶために道路にレールを敷設したものだった。
 ペナダレン号の試験走行は成功したが、なお大きな問題があった。馬車鉄道用のレールを使用したのだが、鋳鉄製のレールはもろくて蒸気機関車の重量を支えきれず、すぐに破損してしまったのだ。結局ペナダレン号は三回ほど使用されただけで、貨物の運搬はもとの馬車鉄道に戻されてしまった。蒸気機関車の実用には、まだまだ改良が必要だったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.57

Richard Trevithick
(1771年4月13日 - 1833年4月22日)

 蒸気機関車と聞けばスティブンソンと答える頭になっているが、発明者はトレヴィシック、スティブンソンは改良者ということらしい。蒸気機関におけるニューコメンとワットの関係に相当するか。
 トレヴィシックという名前を恥ずかしながら初めて知ったが、この人物の生涯はざっと追っただけでも波乱万丈、小説以上にスリリングである。上記文中に「1803年には…ある程度の走行実績を上げ」とあるが、その同じ年に彼の製作した蒸気ポンプが爆発して4人の死者が出た(グリニッジの悲劇)。蒸気機関だけでも厄介には事欠かないのに、よくよく一つところに収まらないつくりと見える。テムズ川を横断する河底トンネルの掘削に関わるかと思えば、海運にも手を出すという具合で、どこにも落ち着く気配がない。
 1816年から27年にかけては、南米を股にかけての大ヤマ狙い。これはもうインディ・ジョーンズを地で行く冒険の連続で、一度は現地人と喧嘩してワニをけしかけられ、あやうく食われそうになったとある。一度限りの人生に悔いのないことだったろう。
 詳細は下記、一点だけ抜き書きしておこう。

> 彼の孫二人、リチャード・フランシス・トレビシックとフランシス・ヘンリー・トレビシックは明治の日本にお雇い外国人として招かれ、鉄道技術の指導にあたった。リチャードは、初の日本国産蒸気機関車となった国鉄860形蒸気機関車の製作を指導している。

ペナダレン号のレプリカ(国立ウォーターフロント博物館、スウォンジ)

Ω

2月20日 アメリカの宇宙飛行士グレン、地球周回(1962年)

2024-02-20 03:48:05 | 日記
2024年2月20日(火)

> 1962年2月20日、アメリカの打ち上げたフレンドシップ七号マーキュリー宇宙船は、宇宙飛行士ジョン・グレンを乗せて地球を三回まわった。
 この飛行はトラブルに見舞われ続けた。自動操縦装置の故障で、手動操作を行わなくてはならなかったし、熱遮蔽装置の故障により、大気圏再突入の際に切り離されているはずの逆噴射ロケットも付いたままだった。こうした困難にもかかわらず、グレンは無事生還し、英雄となった。
 その後、グレンは政界に入り、オハイオ州選出の上院議員となった。そして、1998年1月、36年の時を経て、彼は再び宇宙船に乗る機会を得た。NASAがグレンをスペースシャトル、ディスカバリーに搭乗させると正式に発表したのだ。
 今回の彼の役割はペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)であると同時に、老化に関する実験の被験者だった。実験への参加は、もう一度宇宙に行きたいという本人の6年越しの希望だったという。搭乗時にグレンは76歳であった。なお、同乗者の中には初の日本人女性宇宙飛行士向井千秋さんもいた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.56


 16日の項で、チェ・ゲバラについて一つ書き落とした。1959年に来日した際に、ゲバラはわざわざ予定を変更し強く望んで広島を訪問、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花の後、原爆資料館と原爆病院を訪れている。中国新聞の記者の取材に答え、その中で「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うた由。

 さて本日のこと、2月20日に記すべき出来事としては、あまりパッとしない。もともと上掲書のタイトルには「グレンがアメリカで初めて地球の軌道をまわる」とあった。アメリカにとって嬉しくもあろうが、人類にとっては二番煎じ、もとい三番煎じである。
 一番乗りが1961年4月12日、ソビエト連邦のユーリ・ガガーリン(1934-1968)のボストーク1号。地球を一周したところで大気圏に再突入し、最後はパラシュートで降下した。同年8月7日には、ガガーリンに先陣の功を譲ったゲルマン・チトフ(1935-2000)がボストーク2号に乗り、これが二番手。こちらはまる一日以上にわたって地球を周回し、機内で食事をとるなどの実験を行っている。この時チトフは満25歳11か月、軌道宇宙飛行に関しては現在に至るまで最年少である。
 グレンの飛行は彼らの後塵を拝したもので、一日も早くソ連に追いつきたいとの焦りが諸々の不具合を生んだ一因でもあっただろう。もっとも拙速はソ連も似たようなもので、ガガーリンは飛行中に中尉から少佐に二階級特進とのタス通信のニュースを聞いて喜んだが、この発表を飛行中に伝えたのは、当時の技術ではガガーリンが無事生還する可能性が低いと政府高官が考えたためだという。そういえば二階級特進は、戦死者を遇する通例でもある。
 ガガーリンもチトフ同様27歳と若く、軍人としては実戦経験をもっていなかった。一方のグレンは1921年生まれの満40歳。大戦中にはマーシャル諸島などで日本軍に対する対地攻撃に参加し、朝鮮戦争ではセイバーに搭乗してMiG-15を3機撃墜している。きな臭い手である。
 年長のジョン・グレン(John Herschel Glenn Jr., 1921年7月18日 - 2016年12月8日)は、34歳で飛行機事故死したガガーリンはもとより、チトフよりもさらに長く95歳まで生きた。

Ω

二十四節気 雨水

2024-02-19 22:56:23 | 日記
2024年2月19日(月)


  立春から15日目、ぬるんだ雨水が草木の芽生えを助け、日に日に春の息吹が感じられる時候です。
 「冬の間に降った雪や氷が溶けて水となり、雪にかわって雨が降る頃」が、雨水の意味するところです。
 この日は古くから農作業の準備を始める目安として知られていたとか。
(『和の暦手帖』P.32‐33)

 本日の最高気温18℃、明日は20℃超えの予報。万事、温暖の方向へ振れているのが今から気になる。

七十二候
 雨水初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)新暦2月19日~23日
 雨水次候 霞始靆 (かすみはじめてたなびく)  新暦2月24日~28日
 雨水末候 草木萌動(そうもくめばえいずる)   新暦3月1日~5日

 漢字にいろいろあるものだ。「脉」は「脈」と同義かと思うが、「つちのしょう」と読ませるのか。冬の硬い凍土が、雪解け水や雨水によって緩み潤ってくるということらしい。
 二十四節気や七十二候に特化したサイトやブログがいくつもあり、それぞれ素敵に整えられている。たとえば「季節のコラム」さん。

> 暦便覧では「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」とあります。凍て土の表情が変わり、雪解け水も増してきますが、寒の戻りで霜もみられるころ。日が上がると、その霜も解け、凍土は日毎に湿り気を帯び、生気を取り戻していきます。
> 山の養分をたっぷり含んだ雪解け水は蘇りの水ともいわれ、種子の発芽を促し、鶏の産卵率を高めるなど、あらゆる動植物を活性化することが実証されています。

 「靆」は読みの示す通り「雲のたなびくさま」を指す。「靉靆 (あいたい)」など。旁の「逮」は「およぶ、とらえる」の意味だから、雲が孤立せず相連なり、風に押されて追いつ追われつ流れる眺めを考えれば良いか。

 草木が萌えいずるとなれば次は鳥獣の番、自ずと啓蟄へ移ろっていく。

Ω

なぜもっと日本語を教えないのか

2024-02-19 08:53:14 | 日記
2024年2月19日(月)

> 奇道、詭道、機動に長けた悪党楠木ならば、これも有り得ると過(よ)ぎるに違いない。
今村翔吾『人よ、花よ』536

> 英語、英語って言うけど、なぜもっと母国の日本語を教えないのかって思います。美しい日本語がどんどん失われていっているし、スマホでメッセージを送っているだけでは、長い文章が書けなくなります。
 字幕翻訳の仕事でも、求められるのは80%が日本語です。自分は英語がしゃべれるから字幕もできるんじゃないかと思う人もいますが、それはとんでもない誤解です。字幕は短く、的確に、みんなにわかる言葉で、見ている人の感情に訴えなければなりません。そのためには日本語の力が必要なんです。
戸田奈津子『映画と英語と歩んだ87年』2024年2月8日(木)朝日新聞朝刊

> 皆、英語ができないので院の入試が心配だというけれど、大きな勘違いですよ、皆さんができないのは英語ではなくて日本語です。
 「辞書持ち込み可」なら何とかなるというものではない、それどころか辞書を持ち込むことによって、皆さんの弱点が決定的に明らかになるんです。分からない単語を辞書で引き、出てきた訳語をつぎはぎして出来上がったしろものが、日本語として意味が通っていようがいまいがおかまいなし。そうした珍妙な答案が示すのは英語力の不足ではなく、母語に対するリスペクトの絶望的な欠落です。
某大学の入試説明会における某教授の発言から

Ω


2月19日 漱石が芥川龍之介を手紙で激賞(1916)

2024-02-19 03:27:29 | 日記
2024年2月19日(月)

>  1916 年(大正5年)2月19日、芥川龍之介の『鼻』を激賞する手紙が、師の夏目漱石によって書かれた。『鼻』は、東京帝国大学英文科に在籍中の芥川が、菊池寛、久米正雄らと刊行した同人誌『新思潮』の第四次創刊号に掲載された。芥川は漱石門下に入ったばかりだったが、『鼻』が漱石に認められたことで、作家となる覚悟ができたのである。
 大学卒業後、芥川は英語教員をするかたわら創作に励み、1917年に初の短編集『羅生門』を発表し、作家としてのスタートを切っている。
 『鼻』を読んだ夏目漱石の手紙の中には、次のような激賞の言葉があった。「敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で 類のない作家になれます。しかし『鼻』だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんなことに頓着しないでずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かないほうが身体の薬です。」
 『羅生門』を刊行した後の芥川は、17年に『戯作三昧』、18年に『地獄変』『奉教人の死』『枯野抄』と、漱石の言葉通り、堰を切ったように力作を発表するのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.55

    

 夏目漱石 1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日 
 芥川龍之介 1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日

 ということは、この手紙が書かれたのは漱石が亡くなる10か月ほど前、同じ年の二月ということになる。前年に五回目の胃潰瘍で倒れ、糖尿病も始まっており、体調はいよいよ芳しくなかったであろう。そんな中での芥川への激励は、文豪の価値ある置き土産となった。

Ω