中学の卒業遠足は高知の宇佐町だった。
海岸沿いにあるその町は
今、鯨やイルカの見える事で人気を呼んでいるらしい。
祖母の家族の墓のあるその町で私は両親が離婚してから
5才までの数年間を祖父母と父と共に暮した。
その日は真っ青な海を向こうに
それぞれ違う高校に行ってしまうかも知れない友達とお弁当を食べ
噂話をしたり わいわい 楽しく過ごした事だ。
午後 バスで学校に戻るや
”校長先生の所に行くように、、、” と連絡が入った。
その頃 まじめな生徒だった私は、
”何を褒められるんだろう。” と
うきうきした思いで校長室のドアをノックした。
ソフアーに座った私のすぐ隣に校長先生は座り
私の手を握り自分の膝の上に置いた。
何か 様子がおかしい、そんな想いをしていると 校長先生が、
”君はおばあさんと二人暮らしだったね、” と 切り出した。
祖父が亡くなって 祖母は家を売り 高知市に住む継母の家の離れに
私と父を連れ引っ越した。
分裂病であった父がそれから一年後に入院してから
小さな台所と二間のあるその離れで
私と祖母は約10年間 二人暮らしをした。
”おばあさんが 今日交通事故にあって、、、”
という校長先生の言葉に
病院のベッドで横になっている祖母の姿が浮かんだ。
その後先生が言った
”、、、亡くなられた。” の言葉を確かに耳にしたのだが、
そこから何か脳が麻痺でもしたかのようになり、
その後に続いた校長先生の言葉は耳にも入らず
そこで 記憶が消えてしまった。
廊下で私を待っていてくれた親友が
コートを引きずりながらでてきた私を見て 泣き出したと言っていた。
70代にはいっていた祖母は
高血圧などの持病でほとんど寝て暮していたが、
祖母の死など その頃の私は考えた事もなかった。
学校ではまじめで私の性格を”やさしい”と表現する友達もいたが
頑固で口達者な私は祖母にたいしてかなりきつい事を言っていた。
亡くなった朝 女学校時代の友人を訪ねた祖母は
口の悪い私の事での悩みを話したという。
今も私はその事を深く後悔する。
祖母の冥福は何よりも私が幸福にまっすぐ生きていく事だろう。
この年になって 時々私は自分の中で生きている祖母を感じる事がある。
そんな自分を大切にしていきたいと思う。
そして 今も 私をしっかりと見守ってくれる祖母を感じ
そんな ”見えない力 ”に心から感謝する事だ。
3月3日は祖母の命日だ。
長い話を読んでくれて有り難う。
海岸沿いにあるその町は
今、鯨やイルカの見える事で人気を呼んでいるらしい。
祖母の家族の墓のあるその町で私は両親が離婚してから
5才までの数年間を祖父母と父と共に暮した。
その日は真っ青な海を向こうに
それぞれ違う高校に行ってしまうかも知れない友達とお弁当を食べ
噂話をしたり わいわい 楽しく過ごした事だ。
午後 バスで学校に戻るや
”校長先生の所に行くように、、、” と連絡が入った。
その頃 まじめな生徒だった私は、
”何を褒められるんだろう。” と
うきうきした思いで校長室のドアをノックした。
ソフアーに座った私のすぐ隣に校長先生は座り
私の手を握り自分の膝の上に置いた。
何か 様子がおかしい、そんな想いをしていると 校長先生が、
”君はおばあさんと二人暮らしだったね、” と 切り出した。
祖父が亡くなって 祖母は家を売り 高知市に住む継母の家の離れに
私と父を連れ引っ越した。
分裂病であった父がそれから一年後に入院してから
小さな台所と二間のあるその離れで
私と祖母は約10年間 二人暮らしをした。
”おばあさんが 今日交通事故にあって、、、”
という校長先生の言葉に
病院のベッドで横になっている祖母の姿が浮かんだ。
その後先生が言った
”、、、亡くなられた。” の言葉を確かに耳にしたのだが、
そこから何か脳が麻痺でもしたかのようになり、
その後に続いた校長先生の言葉は耳にも入らず
そこで 記憶が消えてしまった。
廊下で私を待っていてくれた親友が
コートを引きずりながらでてきた私を見て 泣き出したと言っていた。
70代にはいっていた祖母は
高血圧などの持病でほとんど寝て暮していたが、
祖母の死など その頃の私は考えた事もなかった。
学校ではまじめで私の性格を”やさしい”と表現する友達もいたが
頑固で口達者な私は祖母にたいしてかなりきつい事を言っていた。
亡くなった朝 女学校時代の友人を訪ねた祖母は
口の悪い私の事での悩みを話したという。
今も私はその事を深く後悔する。
祖母の冥福は何よりも私が幸福にまっすぐ生きていく事だろう。
この年になって 時々私は自分の中で生きている祖母を感じる事がある。
そんな自分を大切にしていきたいと思う。
そして 今も 私をしっかりと見守ってくれる祖母を感じ
そんな ”見えない力 ”に心から感謝する事だ。
3月3日は祖母の命日だ。
長い話を読んでくれて有り難う。