アメリカでの最初の13年間を暮らしたアイオワ州のある街に
80年代の初め、中国人が経営する中華レストランがオープンした。
私がアメリカで食べた最初の中華料理がその店の料理だった。
学生時代、日本でウエイトレスのバイトをしていた事や
このレストランでアジア人が働いていた事もあって
「これなら私にも出来る」
そう思った私は
その日 お会計を済ませる時に人を雇っているか訊き
1歳の長女を数時間、義母に預けることにして、その店で働き始めた。
そのレストランでは中国人のオーナーがメキシコ人に料理を教え
作っていたのはメキシコ人だったけれど
教えた中国人の腕がいいのか どれも美味しい料理だった。
ウエイトレスの収入は良く、
子育て中は子供とのスケジュールとも合って
都合が良かった事が10年続けた大きな理由だった。
アメリカ風にアレンジされた中華料理の一つに
スイートアンドサワーポーク ( Sweet and Sour Pork ) と言う料理がある。
甘くて酸っぱいポークとあるのは アメリカ版 酢豚
揚げた豚肉に気持ちばかりの野菜とパイナップルに
ケチャップ、砂糖、酢で作った真っ赤なスイートサワーソースをかけて出来上がり。
私が食べたことのあるレストランはどこもそんな酢豚だった。
甘ったるいその酢豚の味にも慣れたけど
オーダーしてまで食べたいとは今も思わないなぁ。
仕事が休みの月曜日、
解凍された豚肉が冷蔵庫にあったので酢豚を作ることにした。
醤油と酢、酒他で味付けした酢豚はケチャップなし
白いご飯をそのまま食べないバッキーは
おかずをいつもご飯の上に盛り付ける。
ぽちっとね
バッキーは、ごはんの上にいろいろな、おかずをのせて食べるのですね。
日本にどのくらいの期間いたのでしょう
よっちゃんの、お母さんの名前は愛子さん。戦争が終わり夫が軍人だったので、失業し生活に困ったそうで自殺説があるらしい。その頃、元、軍人の奥さんは、アメリカ軍の払い下げの毛布を売って回っていたらしいけど、愛子さんは、それをようしなかったらしいよ。継母は、お茶とお花の師匠をして家計を支えたので、よっちゃんのお父さんは頭が上がらなかったそうです。
戦後は、日本国中、大変だったよね
その5年後に私は、生まれました。
「おばさんが(松枝祖母)、喜んだわね」
と、きよちゃん(父のいとこ)から聞きました
ここら辺の日本レストラン、キッチンはヒスパニックってのが結構多いんですよ。
酢豚、子供のころは大好物でした。揚げ物が食べたくなった時は、私もレストランです。後片付けがおっくうに感じてしまって…。ヒスパニックの人たち、日本食や韓国レストランのキッチンで働いていますね。真面目な人が多い印象です。
この仕事が初めて税金を支払い始めた仕事です
この前にはこもりやビルの掃除をしていました。軍隊は4年間でしたが 海軍兵は海に出ている月日が長く 日本に実際いたのは短いでしょうね。
ご先祖さまのこういった話は知らないことが多いので 思い出すことがあったら
また 教えて下さいね
愛子さんと文?さんが並んだ写真は持っています
文さんは 私のガーディアンエンジェルだと ミーディアムのかたから言われたことがあります
#Reeさんへ
そうなんですか
結構面倒くさい料理とかつくってらっしゃるように思いますが
そちらもヒスパニックのかた多そうですよね
#幾星霜さんへ
コメントありがとうございます
アメリカのキャセロールに比べ 洗い物が多くなりますね
このレストランで働いていたメキシコ人は重労働をこなしていました
よく働いていました。
懐かしい思い出です