今年2月頃から俄かに湧き上がった土淵町界隈の宝領社探し、同町には一応4箇所の宝領(法領)社が存在していた、としているという内容を基に、以前結成された怪しい中年探偵団メンバーが現在も個別で探訪、なんとか三箇所を突き止めたようでもあります。

下栃内の宝領社(2007年2月某日、怪しい中年探偵団の面々)
土淵の宝領社は下栃内、林崎、山口、山崎にあり、それぞれ古い館跡とかかわる伝説となっており、近くに用水路が掘られていることから、土淵開拓の守護神とも考えられる・・・・留場 栄「山人炉端話」
他にも明神の使い蛇を御神体とする内容も伝えられるが、これらも頭の隅に置きながら、まずは土淵の館跡と宝領を私なりに考えてみました。
遠野通いブロガーさん達が取り上げた土淵町林崎の宝領、まずはこの界隈の館跡を探索することが私の役目ではないのか、そんな思いがございましたが、雨天と急な呼び出しで出向くこと叶わず、しかし、一応の下調べは出来ております。
宝領社が関係するものと思われる館跡は・・・
山口(山口館・大洞館)・下栃内(本宿館、別名西館)・山崎(栃内館)・林崎(沢の口館)となっている。
今回は、最後の沢の口館の探訪ということになりますが、林崎地内の山野にその館跡は存在するようです。
そして館下の麓には沢口姓の御宅が数軒あり、林崎の宝領と思われる場所の近所でもあります。
沢の口といえば主に遠野では附馬牛町東禅寺地区の沢の口、そして松崎町松崎の沢の口が最初に思い浮かぶ地名でもある。
そしてその共通点は、遠野七観音が置かれる地であり、附馬牛は七番長洞寺笹谷観音、松崎は二番松崎寺松崎観音の存在である。
しかも寺屋敷とか寺沢と呼ばれる古名があり、古に寺跡があったとも伝えられる。(松崎沢の口には史実として遠野南部時代の江戸期に古寺はあった・孝安寺と祥雲寺)さらに、土淵林崎にも古寺跡があったとも伝えられる。
沢の口という地名から沢水の取入口、飲料水や農業用水としての使用されただろう水に関ることが地名に反映されているという感覚はそのとおりであるが、古の寺跡との関係も何かしらありそうな思いもいたします。
館跡関連の観点からすれば、大概の館跡に鎮座する社は、まさに館跡に後の時代に祀られたものという見方でもあり、無論、館神として館が機能していた時代に置かれたものもあるとも思いますが、この宝領に関しては、後の時代という匂いがするのは私だけでしょうか。
確かに館はその地域の政治軍事を司り、富と権力の象徴だったことも伺えますが、それと同時に地域を治めるには信仰的な事柄も不可欠でもあります。
館主一族やらその配下がどのような信仰を駆使したかは今後の課題でもありますが、宝領に関った遠野ぶれんどの皆様の見解のように、熊野信仰やらの修験が関連しそうなことでもあり、さらに修験者は技能集団、或いは特別な技能を有する人々で、中世期に遠野を訪れた修験の人々は鉱山師、土木技師といったこともあったと思われ、館を築くことにも長けていたこと、これもひとついえることかもしれません。
宝領そのものは熊野信仰等から変形した形で江戸期に変革期を迎えたものか、いずれこちらも館跡探訪と共にいつかは取り組まねばならないものと思います。

下栃内の宝領社(2007年2月某日、怪しい中年探偵団の面々)
土淵の宝領社は下栃内、林崎、山口、山崎にあり、それぞれ古い館跡とかかわる伝説となっており、近くに用水路が掘られていることから、土淵開拓の守護神とも考えられる・・・・留場 栄「山人炉端話」
他にも明神の使い蛇を御神体とする内容も伝えられるが、これらも頭の隅に置きながら、まずは土淵の館跡と宝領を私なりに考えてみました。
遠野通いブロガーさん達が取り上げた土淵町林崎の宝領、まずはこの界隈の館跡を探索することが私の役目ではないのか、そんな思いがございましたが、雨天と急な呼び出しで出向くこと叶わず、しかし、一応の下調べは出来ております。
宝領社が関係するものと思われる館跡は・・・
山口(山口館・大洞館)・下栃内(本宿館、別名西館)・山崎(栃内館)・林崎(沢の口館)となっている。
今回は、最後の沢の口館の探訪ということになりますが、林崎地内の山野にその館跡は存在するようです。
そして館下の麓には沢口姓の御宅が数軒あり、林崎の宝領と思われる場所の近所でもあります。
沢の口といえば主に遠野では附馬牛町東禅寺地区の沢の口、そして松崎町松崎の沢の口が最初に思い浮かぶ地名でもある。
そしてその共通点は、遠野七観音が置かれる地であり、附馬牛は七番長洞寺笹谷観音、松崎は二番松崎寺松崎観音の存在である。
しかも寺屋敷とか寺沢と呼ばれる古名があり、古に寺跡があったとも伝えられる。(松崎沢の口には史実として遠野南部時代の江戸期に古寺はあった・孝安寺と祥雲寺)さらに、土淵林崎にも古寺跡があったとも伝えられる。
沢の口という地名から沢水の取入口、飲料水や農業用水としての使用されただろう水に関ることが地名に反映されているという感覚はそのとおりであるが、古の寺跡との関係も何かしらありそうな思いもいたします。
館跡関連の観点からすれば、大概の館跡に鎮座する社は、まさに館跡に後の時代に祀られたものという見方でもあり、無論、館神として館が機能していた時代に置かれたものもあるとも思いますが、この宝領に関しては、後の時代という匂いがするのは私だけでしょうか。
確かに館はその地域の政治軍事を司り、富と権力の象徴だったことも伺えますが、それと同時に地域を治めるには信仰的な事柄も不可欠でもあります。
館主一族やらその配下がどのような信仰を駆使したかは今後の課題でもありますが、宝領に関った遠野ぶれんどの皆様の見解のように、熊野信仰やらの修験が関連しそうなことでもあり、さらに修験者は技能集団、或いは特別な技能を有する人々で、中世期に遠野を訪れた修験の人々は鉱山師、土木技師といったこともあったと思われ、館を築くことにも長けていたこと、これもひとついえることかもしれません。
宝領そのものは熊野信仰等から変形した形で江戸期に変革期を迎えたものか、いずれこちらも館跡探訪と共にいつかは取り組まねばならないものと思います。