「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

栃内善兵衛

2007-04-24 16:10:54 | 歴史・民俗
 栃内善兵衛(兵部)

 栃内館主、葛西領江刺出の盲目の兵法者。
 栃内地域の馬産に尽力し、遠野七観音のひとつ山崎観音は、善兵衛の産馬育成に関りがあったといわれ馬頭観音を祀っていたと伝えられる。
 弘治年間、綾織新里の西風館が葛西勢の夜襲によって落城、館主一族である西風館氏(宇夫方)が壊滅的打撃で衰退すると、西風館は栃内兵部に与えられ、栃内館は兵部の嫡子が継承、兵部は二男と共に西風館へ入り、西風館典厩と名乗ったと伝えられる。


 さて、阿曾沼興廃記やら阿曾沼家乗を本にして後世に書かれた郷土資料各種に概ね上記のような記述がされている。

 栃内善兵衛は別資料によると、葛西領江刺郡、岩谷堂城主、江刺氏の支族で天正18年、豊臣秀吉による奥州仕置で改易となった宗家葛西氏と共に主家江刺氏も没落、この時、遠野へ流れてきたとも伝えられる。

 遠野孫次郎(阿曾沼広郷)に仕え、栃内を治めたようでもある。
 慶長6年、遠野の政変では、駒木隼人盲目の軍師が活躍したと伝えられるが、駒木隼人はこの時、若干17歳といわれ、盲目の軍師が駒木隼人とは少し考え難い、盲目の兵法者と伝えられる栃内兵部と混同しての伝えなのか、やはり素直に考えれば盲目の軍師は栃内兵部その人なのかもしれません。

 その後の栃内氏については不明ながら、盛岡南部藩士には栃内家があり、やはり江刺氏族の出とされている。

 西風館典厩を名乗った栃内兵部、西風館姓は縁の人々か、それとも宇夫方氏の支流か?・・・・・。



 空掘跡か?

 天気も上々、土淵の栃内館が気になっていたので、山崎集落へ・・・・。

 館跡めぐりを始めた当初から栃内館は気にしておりましたが、実は未だに未踏の館跡だったのです。

 館跡は光岸寺後方の墓地のある山野か、以前近隣の方々2名に栃内館は何処かと訪ねたことがありましたが、二人とも知らないという返事、しかし、古館(ふんだて)という古名があって、古館という苗字の御宅もあるという、その御宅の背後の山が館跡ではないのか?・・・と逆に聞かれたりした記憶が蘇ります。

 以来、お寺さんの裏山が館跡とばかり思っていたが、本日、思い切って山野に突入・・・資料には確かに古舘の記述と熊野社、堀は林道になっていると書かれている。

 しかし、比高は結構ある、山頂までたどり着いたが館跡らしき形状も痕跡も皆無、隣接の山野も徘徊、こちらも何もなし、さらに南隣は角城館のある山野、これは完全な空振りということで断念。

 身も心もお疲れモードで下山して資料を再確認すると、比高は25メートル平山城と書かれている・・・・大汗・・・別場所であろう・・・・。

 そこで、2月に宝領社探しで訪ねた山崎の金勢様がある北側の山野も何かしら怪しい形状を確認してましたので、迷わずそちらへ・・・・上の画像、空掘らしき形状を発見、しかし、どこか林道っぽい、このまま登って行けば答えは出そうですが、この先は笹竹と藪、今回はとりあえず断念いたしました。



 おまけ画像

 今朝の松崎町光興寺から







 さらに山野徘徊中に出会った・・・・


 最初は二匹居ましたが、一匹は逃げ去るも、もう一匹はほとんど逃げない


 10mほどの至近距離でも逃げない、しばしの睨みあいが続きましたが、悠々と山の中へ消えていきました。


カタクリ


 山里にも春が訪れているようです。
 桜開花まであと僅か、待ち遠しいですな。

 
コメント (15)
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