本日も晴天也・・・しかも夏日・・・
昨日の運動会の余韻やら筋肉痛で難儀している方々も多いのでは・・・?
とにかく月曜日、一週間の始まりです・・・
奥州市江刺区人首(米里)
宿場町の雰囲気を色濃く残す「人首」の通り
「人首」・・・ご存知かとは思いますが、「ひとくび」と書いて「ひとかべ」・・・なんかオドロオドロした文字ですが・・・由来等は後で・・・汗
盛街道(大船渡)での宿場として栄えた人首、今の時代、通りが廃れるということは致し方ないことですが、それでも往時を偲ばせる旅館や飲屋さん、商店も営業しております・・・
ということで江刺区人首に出掛けておりました。
今回は、何年ぶりであろう・・・菩提寺の法門山福泉寺の前身で寺跡を残す人首福泉寺跡を訪ねてきたということですが、前回は盛岡市、紫波町に在住の知人の方々と共に地元郷土史家の先生、公民館の方のご案内を受けて初めて訪ねました。
丁度、人首の福泉寺が伊達郡沼辺村から江刺郡人首に移って丸4百年と云われる前年に訪ねた記憶がありますので、2005年の初夏に探訪したことになります。
※伊達郡沼辺村・・・今の宮城県柴田郡村田町?福島県伊達郡桑折町?
沼辺村とは・・・さて、どこなんでしょう・・・?
初探訪の後、檀家役員として、また遠野の福泉寺開基に深く関わった先祖の子孫として、住職さんや他の有力檀家さんに来年は人首の福泉寺は4百年の節目となるとのことをアピールしまして、皆で訪ねましょうと提案するも、色々と行事やらが重なり、その合間の調整も難しく、いつしか立ち消えといった状態でしたが、昨年辺りから御詠歌をされる檀家の方々や住職の奥様から人首の福泉寺跡に是非に行ってみたい・・・そんな話が持ち上がり、以前に探訪経験のある小生に道順とか場所とか詳しく訪ねるものですから、今回、記憶を辿って下見して来たがホントのところですね・・・
旧盛街道
旧盛街道・・・といっても今は農道ですが、その道沿いの山野近くに残されている。
表現的には少し違うと思いますが・・・「夏草や兵どもが夢の跡」 といった雰囲気・・・。
明治維新後に廃れ名跡のみ残す。
後の昭和11年(1936)遠野福泉寺関連で再興となるも間もなく廃寺となった。
かつての堂宇の跡ではなく、お堂が建て替えられた際の古いお堂の残骸か?
歴 史
江刺郡はその昔、仙台の伊達政宗が領する北辺であったが、藩領を接する南部氏の備えとして伊達家臣で伊達郡沼辺村の沼辺玄蕃重仲を江刺郡人首1千石の領主として人首城へ移封した。
その時に、沼辺氏と共に人首に福泉寺(真言宗)も移って来たと伝えられている。(慶長11年(1606)12月) 初代住職は宥海師
他に曹洞宗の自徳寺(同地に現存)も人首に開山と伝えられる。
以来、明治維新までの263年にわたり、人首城主の沼辺家の庇護の下、家中寺として存続したといいますが、明治維新の後は沼辺氏やその家臣達は禄を失い人首を離れると加持祈祷が主である家中寺の福泉寺は檀家も無く没落となり名のみ残すも実質は廃寺となった。
菩提寺、法門山福泉寺(遠野)を開山した初代、佐々木宥尊師が本山長谷寺(奈良県)での修行を終え、本山高木大僧正から名跡のみ残す江刺人首の法門山福泉寺の寺号を頂いて最初の修行の地、五大堂光勝寺(花巻市石鳥谷)に帰って来たのが明治41年?とされる。
宥尊師には江刺において福泉寺再興よりも遠野での早池峰山妙泉寺の再興が宿願であったともいわれますが、当時の政治、社会事情から妙泉寺の寺号復興は難しいと判断、法門山福泉寺として遠野の地に開山を目指し、現在の地に数々の労苦と辛酸の末、大正元年に開山、新寺認可は大正6年となっている。
江刺人首の福泉寺の名跡は継ぐも歴史等を継承したものではなく、寺社においては比較的新しい寺院として今に至っている。
後の昭和11年、宥尊師の弟子であった小山氏が福泉寺別院として人首の福泉寺跡に再興を図るも住職の出征、戦死等の不幸もあって、再興は成らなかった。
樹齢4百年以上と伝えられるカヤの木
人首福泉寺の隆盛を見てきた唯一の証人といえよう・・・。
跡地の斜面には、歴代住職の墓石が数基残されているが、夏草に覆われ確認することは難しい。
墓石には「宥○」の字を使う住職が多くいたことが確認できる。
真言宗豊山派には案外多く、かつての早池峰山妙泉寺歴代でも数多く確認できますし、遠野福泉寺関連の2代までや弟子の多くもそのとおりである。
昭和17年当時の堂宇図面
江刺区米里在、郷土史家、利府氏作図?
お堂は、かつての寺で使用のモノ入れといった雰囲気が・・・?
杖、笠、太鼓、弘法大師の絵・・・等が収められている。
また跡地には他に光明真言碑3基等、古池が残されている。