「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

日門城(気仙郡下有住)探訪

2010-12-08 18:30:44 | 歴史・民俗

  薄暗い曇り空、天気は午後から回復傾向ということでしたが、翌日には冬型が強まり降雪との予報を受けて、この時季恒例の城館跡探訪を実施、奥州市江刺区内の城館跡を予定してましたが、出掛ける寸前に野暮用を頼まれて出遅れてしまったので遠野から比較的近いということで、隣町の住田町の未踏の館跡に行って参りました。

 

日門城(ひかどじょう)

気仙郡住田町下有住火の土 横川

遠景

  この場所に立って写真を撮るのは、今回で2度目・・・汗

 なんか眺めただけで、実際に山野に足を踏み入れる勇気といいますか、その気にならないというのが本音・・・斜面はきついんだろうな?みたいな・・・汗

 しかし、今回は折角勇んで来たということで、上り口を車で流しながらゆっくりと探ると・・・・。

 道端に標柱が・・・この辺が城跡の真下というか、上り口がありそうな雰囲気・・・

 しかし・・・標柱の上は・・・・

  斜度45度くらい?下からみると断崖という感じで、どう見ても此処を登れとは思えない・・・汗

 標柱には頂上には堀切があって本丸跡は広い平場であるという記述がされており、建てた人、個人名が記されておりました・・・おそらく地元の郷土史家?とにかく記述もそうですが、その人の意気込みといいますか、地域の史跡であるという思いに励まされ、この斜面を木につかまりながら直上りいたしました・・・大汗

 資料によると・・・比高150メートル・・・大汗・・・まさに遠野弁でいう「間に合うな」・・・「けっこうな」という意味合いですかね、とにかくかなり身体に応え、さらに足を滑らせたら・・・汗・・・という恐怖も少し覚えたり・・・本来はジグザグに登れば楽なんですが、横歩きで足が滑ったらそのまま滑り落ちることも予想されたので、とにかくきつかったけど一気に登りました。

 宮守館や上郷の瓜ヶ森館に匹敵する辛さがありました・・・。

 

 頂上平場

説明板や標柱のとおり、かなり広い平場となっていた。

  南側の先端部分に土塁らしき形状や窪みはありましたが、階段状の平場は確認できなかった。

 

西側斜面の空堀跡

 

 比較的平坦な尾根が北側から続いており、その尾根を二重の堀切で立ち切っております。

 堀切の奥深く、尾根沿いにしばらく進むと尾根幅が狭くなり徐々に北西側に下りはじめ、この方面からの探訪の方が楽に山頂に辿りつけそうな雰囲気もしますが、距離があって難儀するかもしれません。

 北西側の尾根以外は全て急傾斜地となっているが南東側の杉林の斜面だけは比較的緩斜面(遠景の写真の右端付近)となっている。

 

 堀切

遠野であれば標準的な堀切

 

二重目

 

  階段状となった帯郭的な平場は確認できなかったが、かなり高位置にあるので、ある程度の防御工作の必要性はなかったかもしれません。

  苦労して辿りついただけのことはありました。

 

山頂から・・・

火の土地区

  眼下にみえる山間の集落奥の山々は遠野市との境ということになりますかね?・・・昔は伊達、南部の藩境という極めて重要な位置付けであり、遠野の歴史を語るうえでよく耳にする樺坂峠であろう・・・。

 

 

 城の関連人物として、千葉一族である千葉河内守貞信が一時城主だったと伝えられている(天正年間1573-1592)

 また、千葉右馬亟とも言われるが定かではないですが、この地域の姓はほとんど千葉姓とのことであり、浜田系の千葉氏とも語られているが仔細は不明です。

                                   参考図書  (住田町史)

 

 さて、気になる記述が説明板に記されている。

 「慶長6年、1601年、世田米城の阿曽沼広長が気仙勢3千人を引き連れ赤羽根峠で戦い、秋には遠野勢の侵入を受けて、火の土で迎え撃っている。この時、日門城が大いに役立った・・・」とある。

 

 阿曽沼広長とは、遠野横田城主で遠野盟主であったが慶長5年(1600)に南部勢の支援の下、一族重臣の鱒沢氏、上野氏、平清水氏によるクーデターにより気仙郡世田米に亡命、世田米城主である世田米修理(阿曽沼広久、広長の舅)の支援と太守である伊達政宗の後援を受けて3度の遠野奪還の兵を繰り出すも、全て失敗し、ついに遠野への帰還は果たせず、伊達氏の家臣となった。

 

 赤羽根合戦へ3千人の軍勢、かなりの誇張した数値ですが、同町の平田城の看板にも兵3千人と記されている。

 3千人は誇張しすぎですし、秋の遠野勢の侵入で火の土の戦いは遠野では語られていないが、気仙側の資料とか言い伝えがあるのだろうか?もし何かあるなら是非に知りたいですし、ご教授をいただきたいです。

 

 阿曽沼広長による遠野奪還戦3度目は、樺坂峠の戦いと伝えられており、その際に気仙勢は、ここ火の土を通って進軍したものと思われ、戦いは平清水駿河、小友喜左衛門に率いられた遠野勢に敗れ、散々な目にあって撤退したと伝えられ、その際に、広長の率いる気仙勢は、日門城にて敗残の兵を収容したり、再編成を行って、勝ちに乗じて追尾してきた遠野勢を日門城で食い止めたということではないでしょうか?

 以前からそんな考察をしておりましたが、いずれ遠野小友境ということで、なかなか興味ある地域であると共に城跡でもありました。

                                              以上

 

 住田町まで来たということ、辛い山登りの後は・・・・

 

 

さっぱりと・・・汗

 

そして昼食は少し我慢して・・・・

遠野へ戻ってきてから・・・

 

 

 

けっこう久しぶりのような気がしますが・・・

 

シンプルラーメンなら遠野東の横綱

 

やはり、かなり美味しかったです。

コメント (16)
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