いよいよ半年振りの遠野郷城館跡探訪がスタートいたしました。
本格的な積雪となるまでの間、いくつ回れるかはわかりませんが、なんとか二桁は探訪調査したいと考えてはおりますが、果たしてどうなるのか?
今季一発目は、土淵町内の中世山城舘・・・・その中でも最も難儀しそうな城館跡「角城館」。
角城館跡
本郭は右半分の山(中央が緑で区切られている)
いやいや、久しぶりということもあるし、身体が鈍っていることもありますが、たいへん難儀いたしました。
傾斜40度はあろうかという斜面をジグザグに登っていく、途中で心臓が口から飛び出てくるのではないのか、と思うくらいの辛さ、太ももは張ってくるし、これはもうダメかと思うことしばしば・・・・しかし・・・実は舘山近くに住むご老人が枯草集めをしてましたので、声をかけてみましたところ、親切にも登り口までご案内いただき「まんずまんずな舘だじょ」と仰せで励ましてくれましたので、途中で引き返すわけにもいかない、しかもかなり前から攻略を目指していた舘跡でもありますから、ここは踏ん張ってなんとか頂上に到達・・・・大汗
背面の空堀跡と土塁(空堀は4重堀、かなり高感度)
遠野規格と呼ぶ典型的な遠野での戦国時代期における山城といった造り・・・前面は上郷の板沢舘のような地形で段差の造りも似ている、背面は松崎町の興光寺舘の雰囲気そのまま・・・土淵町内の舘跡では大きな部類に入ると思われます。
標高409メートル・比高104メートル
山頂から山口集落、六角牛山を望む
舘主は沢村氏と前川氏の名が語られている。
沢村氏に関しては大槌孫三郎の兄と伝えられるも、詳細は不明・・・(室町初期の人物となりますが舘の造りは極めて戦国的である)
また前川氏の事績は不明・・・舘山の下には前川姓のお宅が数軒、何か舘主と関わり有る人達なのだろうか・・・こちらは聴取せず・・・。
いずれ、宮守舘の次にきつかった舘山でした。
本宿舘跡(西舘)
小烏瀬川沿いに北は栃内舘、角城館、大楢舘、本宿舘、八幡座舘が順に配置されている。
しかもその距離5キロ足らずか、その中に5つの舘が残されております。
今回は、角城舘の支城といわれる大楢舘も探訪したかったのですが、こちらも本城に負けず劣らずの山構え、断念しまして、隣の下栃内(本宿の川向)の本宿舘を探訪いたしました。
本宿舘(中央上の杉林が主郭)
目星をつけていた山の下の集落まで行くも、どれがそうなのか迷ってしまった。
そこでいったん、離れて遠くから見ることにして、農協支所辺りから眺めてみると、怪しい山が二つ、果たしてどちらか・・・そこで知り合いのバイク屋さんに声をかけてみると、この先に詳しい人がいるので、そこで聞いてみるといい・・・ということで、教えられたお宅にてお聞きしますと、左側の山ということが判明、しかも西舘というそうで本宿舘とは呼ばれていないとか?しかし、この界隈では北東側は大楢舘、南西側は八幡座舘のみであるといいますから、やはり本宿舘が西舘なのだろうと判断しまして、早速攻城に踏み切りました。
背部の空堀跡・・・二重堀
背面にいたっては二重の堀を確認、少し風化が著しい・・・。
しかし、前面は段状の形状がよく残されており、西側から南側を取り巻くように駆け下る空堀も確認・・・山の雰囲気は松崎舘、背面は興光寺舘や奥友舘の雰囲気に近い・・・こちらも戦国時代、それも末期の頃か・・・。
登城ルートは道が付けられ、ゆっくりと登って行くといった感じ、最終地点で20メートルほど急斜面を登らなければならないが、ここだけが苦しいのみで後は楽勝といったところでした。
主郭から土淵中学校をみる
標高378メートル・比高88メートル
舘主は天正の頃、気仙郡から来た鈴木大炊助、子の老之丞は遠野孫次郎から本宿村を賜り、在名での本宿を名乗り、本宿老之丞家久と伝えられる。
さらに慶長5年、南部利直より土淵に8百石、家久の子、因幡家重の代に150石、そのまた子の家治の時、寛永4年八戸直義遠野入部の時に岩手郡内に150石を賜り遠野を離れる。(知行地は現滝沢の大釜)・・・以来南部(盛岡)藩士として代々命脈を保つ・・・・。
詳細は本編サイトの遠野・松崎じぇんご弐で掲載予定。
久しぶり城館跡探訪、かなり疲れましたが、なかなか見応えのある舘もあり、古の舘主を偲ぶ場面もあって浪漫を感じたりもいたしました。
いずれ、本格的な積雪時期まで天候と体力と相談しまして、適宜探訪調査を実施したいと思います。
おまけ
知らんぶりのネネ
18日~19日夕方まで不在となります。
遠野ぶれんどの集い(遠野関連ブログ、サイト)
詳しくはこちら
締め切りまで後わずか・・・20日の朝までに・・・・。
本格的な積雪となるまでの間、いくつ回れるかはわかりませんが、なんとか二桁は探訪調査したいと考えてはおりますが、果たしてどうなるのか?
今季一発目は、土淵町内の中世山城舘・・・・その中でも最も難儀しそうな城館跡「角城館」。
角城館跡
本郭は右半分の山(中央が緑で区切られている)
いやいや、久しぶりということもあるし、身体が鈍っていることもありますが、たいへん難儀いたしました。
傾斜40度はあろうかという斜面をジグザグに登っていく、途中で心臓が口から飛び出てくるのではないのか、と思うくらいの辛さ、太ももは張ってくるし、これはもうダメかと思うことしばしば・・・・しかし・・・実は舘山近くに住むご老人が枯草集めをしてましたので、声をかけてみましたところ、親切にも登り口までご案内いただき「まんずまんずな舘だじょ」と仰せで励ましてくれましたので、途中で引き返すわけにもいかない、しかもかなり前から攻略を目指していた舘跡でもありますから、ここは踏ん張ってなんとか頂上に到達・・・・大汗
背面の空堀跡と土塁(空堀は4重堀、かなり高感度)
遠野規格と呼ぶ典型的な遠野での戦国時代期における山城といった造り・・・前面は上郷の板沢舘のような地形で段差の造りも似ている、背面は松崎町の興光寺舘の雰囲気そのまま・・・土淵町内の舘跡では大きな部類に入ると思われます。
標高409メートル・比高104メートル
山頂から山口集落、六角牛山を望む
舘主は沢村氏と前川氏の名が語られている。
沢村氏に関しては大槌孫三郎の兄と伝えられるも、詳細は不明・・・(室町初期の人物となりますが舘の造りは極めて戦国的である)
また前川氏の事績は不明・・・舘山の下には前川姓のお宅が数軒、何か舘主と関わり有る人達なのだろうか・・・こちらは聴取せず・・・。
いずれ、宮守舘の次にきつかった舘山でした。
本宿舘跡(西舘)
小烏瀬川沿いに北は栃内舘、角城館、大楢舘、本宿舘、八幡座舘が順に配置されている。
しかもその距離5キロ足らずか、その中に5つの舘が残されております。
今回は、角城舘の支城といわれる大楢舘も探訪したかったのですが、こちらも本城に負けず劣らずの山構え、断念しまして、隣の下栃内(本宿の川向)の本宿舘を探訪いたしました。
本宿舘(中央上の杉林が主郭)
目星をつけていた山の下の集落まで行くも、どれがそうなのか迷ってしまった。
そこでいったん、離れて遠くから見ることにして、農協支所辺りから眺めてみると、怪しい山が二つ、果たしてどちらか・・・そこで知り合いのバイク屋さんに声をかけてみると、この先に詳しい人がいるので、そこで聞いてみるといい・・・ということで、教えられたお宅にてお聞きしますと、左側の山ということが判明、しかも西舘というそうで本宿舘とは呼ばれていないとか?しかし、この界隈では北東側は大楢舘、南西側は八幡座舘のみであるといいますから、やはり本宿舘が西舘なのだろうと判断しまして、早速攻城に踏み切りました。
背部の空堀跡・・・二重堀
背面にいたっては二重の堀を確認、少し風化が著しい・・・。
しかし、前面は段状の形状がよく残されており、西側から南側を取り巻くように駆け下る空堀も確認・・・山の雰囲気は松崎舘、背面は興光寺舘や奥友舘の雰囲気に近い・・・こちらも戦国時代、それも末期の頃か・・・。
登城ルートは道が付けられ、ゆっくりと登って行くといった感じ、最終地点で20メートルほど急斜面を登らなければならないが、ここだけが苦しいのみで後は楽勝といったところでした。
主郭から土淵中学校をみる
標高378メートル・比高88メートル
舘主は天正の頃、気仙郡から来た鈴木大炊助、子の老之丞は遠野孫次郎から本宿村を賜り、在名での本宿を名乗り、本宿老之丞家久と伝えられる。
さらに慶長5年、南部利直より土淵に8百石、家久の子、因幡家重の代に150石、そのまた子の家治の時、寛永4年八戸直義遠野入部の時に岩手郡内に150石を賜り遠野を離れる。(知行地は現滝沢の大釜)・・・以来南部(盛岡)藩士として代々命脈を保つ・・・・。
詳細は本編サイトの遠野・松崎じぇんご弐で掲載予定。
久しぶり城館跡探訪、かなり疲れましたが、なかなか見応えのある舘もあり、古の舘主を偲ぶ場面もあって浪漫を感じたりもいたしました。
いずれ、本格的な積雪時期まで天候と体力と相談しまして、適宜探訪調査を実施したいと思います。
おまけ
知らんぶりのネネ
18日~19日夕方まで不在となります。
遠野ぶれんどの集い(遠野関連ブログ、サイト)
詳しくはこちら
締め切りまで後わずか・・・20日の朝までに・・・・。
お疲れ様です。
来週は葉の落ちた象坪山、二ツ岩山あたりを攻めようかな?と画策しております。
それより高いところは最早手に負えないようですね。(宝飯さん情報)
来週はよろしくお願い致します。
本宿氏については、南部藩士の中にその苗字を見つけた時から、遠野との関係を感じていました。これで、納得。流石、わが師匠!
短い期間ですが、私のフィールドワークもはじまりました。
象坪山は柏崎館跡でもありますが、判然とした遺構が残されていないといいますから、今回の調査予定とはしませんでした。
遠野町内にも結構立派な館跡が存在しているようですから、欠上神社裏とか程洞稲荷裏とか、もし良かったらどれかひとつお付き合い願いたいと思います・・・が・・・当日(25日)の準備もありますから、なんともいえません・・・汗
高齢ですから、数年前より格段と体力は落ちております。
しかし、山登りといいますか、何処に何があるとか、わかってくるとその地形を見てその場所に効率良く行く術を身に着けたといいますか、割と楽に行けたりもします。
本宿氏もそのとおり、五日市舘の五日市氏もまた遠野を離れた阿曽沼旧臣、小烏瀬川流域の舘主に南部藩士となった家系、割と散見されます。
ご苦労様です。
封印が解けましたねと言うか、再開。
おめでとうございます。
こう言った地道な行動を多くの方に知っていただく事が
必ず来ます!
応援してますヨ!
「松崎じぇんご2」への訪問が増えます事をお祈りいたします。
森も見晴らしが良くなっているし、周囲の様子が分かりやすいですね。
怪しい獣の接近も・・・・
高さはなくても難儀するのは山を歩く上でよくあることです。
でも、いい運動になりますよね。
新たな発見に心躍らせる楽しみもありますし。
猫ちゃんは山歩きには適さないですからね~
知らんぷりんも致し方なしですか。
これまた面白そうな館ですね。
面白そう=「つらい」のがお決まりなので怖いですが、一年の城巡りの締めくくりは遠野で・・・が定例化してきているので是非見てみたいです。
とはいえ、最近持病のヘルニアが悪化しているので様子を見ながらになりますが、よろしくお願いします。
いよいよ始まりました。
地道な活動ですが好きな分野ですからね。
サイトでは遠野での老舗になりつつある松崎じぇんご弐、なんとか続けて参りたいと思います。
たま千代さん
期間限定ですが、百数十あるといわれる遠野の城館跡、このペースですと5年はかかりそうです。
山歩き・・・山登りで健康づくり、これも勿論兼ねております。
湊丸さん
まさに遠野規格、しかしなかなかの空堀、疲れも一変に吹っ飛びます。
お越しの際は、なるべく山登りの少ない城館を選定しますので、どうぞよろしくお願いします。