寒の戻りが激しく降雪になるとの予報、19日の通勤時、国道396の小峠は雪が舞ってましたし、日中も寒い一日。
明けて20日も冷え込んだ朝を迎え、雨が雪に変わったようです。
県北や沿岸北部では20~30センチの積雪というところもあったとか、ここに来て桜前線も足踏みといったところですね。
<北辺の城柵、志波城>
志波城跡・・・盛岡市太田
延暦22年(803)造営といわれ、外郭は築地塀と大溝の二重で、それぞれ840m四方と930m四方の規模なようです。
内部は中央から、やや南よりに150m四方の政庁が置かれ外郭とを結ぶ大路があったとされ、他に行政実務を執る官衙建物群や外郭沿いには兵舎とされる竪穴式住居群があったとのこと。
壕(堀)
築地塀と櫓
櫓と櫓の間隔は60mで当時の弓矢の射程距離を意識して配置されていたといわれる。
大和朝廷による征夷、すなわち古代東北への侵略の拠点として造られたのが柵とよばれる城柵官衙である。
対蝦夷(あまり好ましくない表現ですが)軍事、政治の拠点としての位置付けで、まずは日本海側が最初とされ、大化3年(647)越後の渟足柵(ぬたりさく)(新潟)が、そのはじめで後の和銅元年(709)に越後国に出羽郡が設けられ5年後に出羽国が誕生する。
太平洋側、すなわち陸奥国は、ほぼ順に北へ進出し拠点の城柵を造営したことが伺われ、宝亀11年(780)、陸奥国に多賀城が造られ、奥州における中心的拠点の政庁となる。
志波城に関しては、延暦7年(788)、征東大使、紀古佐美が5万4千余の大軍を率いて奥州に下向すると翌延暦8年、胆沢地方で阿弖流為に糾合された蝦夷軍に大敗を喫するが、延暦10年(791)さらなる征夷軍が送られ、10万の大軍と共に副使に坂上田村麻呂という陣容で、胆沢蝦夷の長、阿弖流為の軍と激突したのであった。
そして延暦16年(797)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が4万の兵を率いて奥州へ下向、延暦20年(801)には阿弖流為軍と鉾を交えたと推測され、その中にあって翌延暦21年(802)に多賀城から鎮守府の機能を移転させ阿弖流為達の拠点に大胆にも胆沢城を造営、ここに阿弖流為等の胆沢蝦夷達の抵抗は止み、阿弖流為、母禮を伴い上洛(阿弖流為、母禮は斬首)した後、再び陸奥へ下り延暦22年(803)志波城を造営、阿弖流為亡き後の不穏の蝦夷勢に対する最北端の城柵として機能することになる。
しかし、陸奥国での最後の造営となった徳丹城(紫波郡矢巾町)が完成すると、北側を流れる雫石川の度重なる氾濫により、志波城は弘仁3年(812)に停廃(廃城)となり、その役目は徳丹城へ移ることになった。
志波城は僅か10年でその役目を終えたことになる。
1,200年前も岩手山は同じ雄姿をみせていたものと思われますね。
あひるさん・・・白鳥さんか?
笑・・・
厨川の柵跡と金沢の柵跡に逝きたいとオモテます。
前九年&後三年、収束の地ですからね。
厨川の柵・・・の詳しい場所は不明とされますが盛岡の舘坂とか前九年町とか、それらしい名のところがあって、神社と共に昔の館跡の一部がみられますし、少し西側へ移動すると天昌寺というお寺さんの辺りが厨川の柵址だという説もありますしね。
後三年関係は秋田の仙北に後三年の駅・・・役・・・笑・・・という駅もありますし、金沢柵址には平安の風、わたる公園?というところがあって、関連人物の銅像多数があったような・・・金沢の柵は中世山城跡ですね、あれは・・・横手や大仙も良いかもしれませんね、三平の里もありますしね・・・「どうもすみません」ではないですよ・・・笑
岩手山をバックにした画、ステキですねー。
秋田岩手の史跡巡りツアーなんていいかもですね。
日本史といえば、遠野物語の中にある、
「安倍貞任の母の家」の話しに"浪漫"を感じます♪
まだまだ完全に落ち着いているわけでもないですが、行動範囲を少し広げようかと思ってます。
まずは秋田縦貫内陸鉄道と桜として、行きたいと思ってます。
貞任関係は遠野に結構ありますね。
遠野で前九年合戦を追うのも良いかもしれません。
そうしますとjunさんお住まいの方は後三年合戦ということになりますね。
これもそのうちに・・・・。
遠野に大仙市のボランティア拠点が設置されましたよ。
今年は行きたいです。
志波城では、蝦夷が年貢を納める時期とかは、飲食つきの
接待をしていた…とか?
昔も国はそんなことしてたんだな~?と、なんか不思議に
思いました。
現代と似ていて…一応、丸くおさまる努力はしてたってことなんですかね…?f(^ー^;
志波城中の展示場に…田村麿呂さんの肖像画がありましたよね?
私は初めて田村麿呂さん見たんで…「こやつが…にっくき田村麿呂かぁ~!(;¬_¬)」と
見て来たんですがf(^ー^;とらねこさんも見ました???
あひる?白鳥?う~ん?あひる…??f(^_^;
田村麻呂将軍の肖像画がみておりません。
志波城跡では、あくまでも岩手山撮影が主目的で内部の政庁まで行きませんでした。
胆沢城もそうですが、古代東北における朝廷の城柵址は発掘調査もされて、中には志波城のように一部建物等が復元されているところもあって見やすいですね。徳丹城は小学校の敷地内だったかな?
お城めぐりならば、二戸の九戸城跡、三戸の三戸城跡、八戸の根城跡が大きくて見やすいかもしれませんよ。
八戸で乾杯も良いかも・・・銭湯、温泉もあるし・・・・・笑
現に田村麻呂はアテルイらの助命を上司の公家たちに進言しましたが、その公家たちが「東北の人間は信用ならない」と言ってアテルイとモレを斬首したというわけです。
城は城でも古代・中世・近世とまたそれぞれ全然違うのですが、東北北部は他の地域と違って古代の柵跡が残っているのが良いですね。
アテルイは田村麻呂を信用していた、また田村麻呂もアテルイ、モレといった有能な東北の人材無くして蝦夷世界の浸透、支配は無いと考えていた・・・とも語られますよね。
しかし、結果的にアテルイ等は二度と故郷に戻ることなく散ったということになりますが、ライバル田村麻呂に関しては、結構、伝説となったり英雄視された経緯が東北ではみられる点、ちょっと面白いというか興味を覚えております。
これは前九年、後三年の役での八幡太郎にもいえることで、敵が何故に?・・・まっ、以前から感じていたことでもあるんですが、そのうちに・・・ということで・・・汗
SBR主宰さんや藤九郎さんといった師匠の方々が城館関係から姿が見えなくなって張り合いがなくなったのか、最近は城館跡探訪に力が入りませんが、ボチボチと続けて参りたいと思います。
徳丹城まつり。と、のぼりがたくさん!!( ̄▽ ̄;)なんかやってる???
ここだったんですね~!小学校&お城!!知らなかったです!(^-^)b
そうです小学校の敷地の中?というか隣?ですね。
若い頃、矢巾に半年程全寮制での研修で行ってましたので、その存在はわかっていたし徳丹という珍しい地名も記憶にありました。
古代東北、陸奥国最後の造営、そして志波城を廃止した後は最北端の城柵として機能していたんですね。
近年、朝廷軍の兵士の木製の兜が発見されたのが徳丹城だったような?最初、見つけた時、桶かなんかと思ったとか?
いずれ1200年前ですからね・・・。