2年前の拙ブログの5月のエントリーを読み返してみると、5月1日に福泉寺の桜がようやく咲き出し、4日に大観音堂が満開を迎え、10日過ぎでもまだ桜が残っていたようでもあります。
今年は、それなりに冬の冷え込みやら積雪もあったのですが、それでも例年より1週間早く桜が咲きだし、今は新緑の季節となっている。
福泉寺庫裏付近
ひょっとして僅かに桜の花が残る木々があるのか?なんて思い、一番最後の方に満開を迎えた木を覗くも・・・・。
葉桜ですな・・・笑
地面には
まだ散った花弁は確認できる。
我家では、芝桜が見頃となっておりますが、除草剤の影響か、だいぶその範囲が減っております・・・汗
珍しいかどうかはわかりませんが、紫色のものが僅かですがあります。
こちらは白とピンク。
さて、数年前の上京の際に都内在住で歴史仲間であるI氏から、とある資料のコピーをいただいたことがありました。
後に小生もその存在を知ることになりましたが、平成4年3月刊行、遠野市博物館より出された「遠野郷史料・第3集・阿曾沼家乗」の口語訳されたものです。
遠野士族、宇夫方文吾(旧遠野南部家士)によって著された内容ですが、通説である遠野阿曾沼氏に関する大よその概要が記されている。
この訳文をされた学者の先生による見解が後尾に記されていたが、これがかなりの説得力と共に驚愕した記憶があって、今もなお気になる内容でもある。
○阿曾沼と浅沼は同意義にあらず
奥州閉伊郡遠野横田の城主は、俵藤太秀郷の後胤、奥州阿曾沼郡の領主、阿曾沼四郎広綱「後称民部尉氏を浅沼と云」・・・(阿曾沼興廃記)
阿曾沼氏出於鎮守府将軍藤原秀郷九世孫足利有綱、有綱有二子・・・・・次広綱四郎後改民部丞・属頼朝・居武蔵国・元暦元年9月・頼朝令範頼討平氏・広綱従有功陸食陸奥国阿曾沼郡因氏焉・・・(阿曾沼家乗)
広綱の先祖は俵藤太(藤原広郷)で、父は足利有綱、平氏追討の戦功で陸奥国阿曾沼郡へ食封となった・・・。
阿曾沼氏は下野国内(栃木県佐野市)の出と解釈され、安蘇郡安蘇沼郷という地名があったことから、阿蘇沼の充字として阿曽沼とし、さらに広綱は吾妻鏡にも登場する武士で、浅沼四郎広綱を以ってして阿曽沼四郎広綱と同一人物に世の史家達は判断、現佐野市内に浅沼という地名が存在したこともあり、安蘇沼郡の浅沼が合成されて阿曽沼が創出されたという見解である。
これは全く古書編纂に関る妄想に他ならないという見解でもある。
かいつまんで詳細に記することは慎みますが、古文書の訳文からすればなるほどといわざるを得ない説得力があり、またよく調べている雰囲気も感じられる。
さらに陸奥国阿曽沼郡、此処は何処であったのか?福島県の阿沼郡(会津)にその地名があったと記されていますが、阿曽沼という地名が存在するのかは未確認ですが、福島が発祥ではないのかと?結論付けがなされている。
確かに遠野における阿曾沼氏に関しては、謎の部分が多く、その事績、歴代もしかりで、不明な点が多いのも確かでもあります。
昨年から遠野阿曾沼氏に関しての考察を本格的に取り組む予定でしたが、目論見通りにはいかず、まだ2割程度の妄想考察をしたに過ぎません。
今回取り上げた訳文からの見解も大きく立ちはだかる内容でもあって、かなり難儀しており、正直言えば放置している状態かもしれません・・・汗
ただ、遠野南部家文書にての建武元年「遠野保の事・・・」ここに阿曽沼氏が出てくること、下野権守代朝綱朝兼という記述されるように下野国との関連性は極めて高いこと、遠野は阿曽沼氏と関わりがあったことは史実・・・等・・・これらも踏まえてもかなりの難題であると判断しております。
早池峰山
太古の昔から遠野を見つめてきた早池峰山をはじめ遠野の神々が棲む山河だけが、知っているものかもしれません・・・・。
盛岡在住で作家の高橋克彦氏と中央で活躍される作家の井沢元彦氏とのトーク番組を偶然に観ましたが、興味深い論説に中央が認めた、国が認めた歴史は「正史」という、その異説やら伝承等を基にするもかなりの確証を含んでいてもその歴史を「野史」という・・・。
中央なり高い場所から認められなければならないというもどかしさと、さらに共鳴できる話として、地方の郷土史家といわれる人達は何十年もかけて資料や伝承を採取、その地域の歴史発掘に多大な功績が認められる存在であるも、行政などには十分な評価も受けられず、自費出版という形でその研究の集大成を世に送る等、かなり冷遇されている現実があると・・・・・。
今の世はブログをはじめとするインターネットでの公開もでき、そういった意味では自己研究の成果を配信もできますが、それでも高い位置からみたものが正史或いは史実という世の流れは相変わらずであると思います。
無論、私はまだまだ力不足、知識不足でありますが、せめて「野史」といわれても高い精度の場面まではいつかは到達したいが本音ではありますが、我妄想もいよいよ冴え渡り・・・に至るものなのか?、さらにさらに精進しなければと思うところです・・・汗
今年は、それなりに冬の冷え込みやら積雪もあったのですが、それでも例年より1週間早く桜が咲きだし、今は新緑の季節となっている。
福泉寺庫裏付近
ひょっとして僅かに桜の花が残る木々があるのか?なんて思い、一番最後の方に満開を迎えた木を覗くも・・・・。
葉桜ですな・・・笑
地面には
まだ散った花弁は確認できる。
我家では、芝桜が見頃となっておりますが、除草剤の影響か、だいぶその範囲が減っております・・・汗
珍しいかどうかはわかりませんが、紫色のものが僅かですがあります。
こちらは白とピンク。
さて、数年前の上京の際に都内在住で歴史仲間であるI氏から、とある資料のコピーをいただいたことがありました。
後に小生もその存在を知ることになりましたが、平成4年3月刊行、遠野市博物館より出された「遠野郷史料・第3集・阿曾沼家乗」の口語訳されたものです。
遠野士族、宇夫方文吾(旧遠野南部家士)によって著された内容ですが、通説である遠野阿曾沼氏に関する大よその概要が記されている。
この訳文をされた学者の先生による見解が後尾に記されていたが、これがかなりの説得力と共に驚愕した記憶があって、今もなお気になる内容でもある。
○阿曾沼と浅沼は同意義にあらず
奥州閉伊郡遠野横田の城主は、俵藤太秀郷の後胤、奥州阿曾沼郡の領主、阿曾沼四郎広綱「後称民部尉氏を浅沼と云」・・・(阿曾沼興廃記)
阿曾沼氏出於鎮守府将軍藤原秀郷九世孫足利有綱、有綱有二子・・・・・次広綱四郎後改民部丞・属頼朝・居武蔵国・元暦元年9月・頼朝令範頼討平氏・広綱従有功陸食陸奥国阿曾沼郡因氏焉・・・(阿曾沼家乗)
広綱の先祖は俵藤太(藤原広郷)で、父は足利有綱、平氏追討の戦功で陸奥国阿曾沼郡へ食封となった・・・。
阿曾沼氏は下野国内(栃木県佐野市)の出と解釈され、安蘇郡安蘇沼郷という地名があったことから、阿蘇沼の充字として阿曽沼とし、さらに広綱は吾妻鏡にも登場する武士で、浅沼四郎広綱を以ってして阿曽沼四郎広綱と同一人物に世の史家達は判断、現佐野市内に浅沼という地名が存在したこともあり、安蘇沼郡の浅沼が合成されて阿曽沼が創出されたという見解である。
これは全く古書編纂に関る妄想に他ならないという見解でもある。
かいつまんで詳細に記することは慎みますが、古文書の訳文からすればなるほどといわざるを得ない説得力があり、またよく調べている雰囲気も感じられる。
さらに陸奥国阿曽沼郡、此処は何処であったのか?福島県の阿沼郡(会津)にその地名があったと記されていますが、阿曽沼という地名が存在するのかは未確認ですが、福島が発祥ではないのかと?結論付けがなされている。
確かに遠野における阿曾沼氏に関しては、謎の部分が多く、その事績、歴代もしかりで、不明な点が多いのも確かでもあります。
昨年から遠野阿曾沼氏に関しての考察を本格的に取り組む予定でしたが、目論見通りにはいかず、まだ2割程度の妄想考察をしたに過ぎません。
今回取り上げた訳文からの見解も大きく立ちはだかる内容でもあって、かなり難儀しており、正直言えば放置している状態かもしれません・・・汗
ただ、遠野南部家文書にての建武元年「遠野保の事・・・」ここに阿曽沼氏が出てくること、下野権守代朝綱朝兼という記述されるように下野国との関連性は極めて高いこと、遠野は阿曽沼氏と関わりがあったことは史実・・・等・・・これらも踏まえてもかなりの難題であると判断しております。
早池峰山
太古の昔から遠野を見つめてきた早池峰山をはじめ遠野の神々が棲む山河だけが、知っているものかもしれません・・・・。
盛岡在住で作家の高橋克彦氏と中央で活躍される作家の井沢元彦氏とのトーク番組を偶然に観ましたが、興味深い論説に中央が認めた、国が認めた歴史は「正史」という、その異説やら伝承等を基にするもかなりの確証を含んでいてもその歴史を「野史」という・・・。
中央なり高い場所から認められなければならないというもどかしさと、さらに共鳴できる話として、地方の郷土史家といわれる人達は何十年もかけて資料や伝承を採取、その地域の歴史発掘に多大な功績が認められる存在であるも、行政などには十分な評価も受けられず、自費出版という形でその研究の集大成を世に送る等、かなり冷遇されている現実があると・・・・・。
今の世はブログをはじめとするインターネットでの公開もでき、そういった意味では自己研究の成果を配信もできますが、それでも高い位置からみたものが正史或いは史実という世の流れは相変わらずであると思います。
無論、私はまだまだ力不足、知識不足でありますが、せめて「野史」といわれても高い精度の場面まではいつかは到達したいが本音ではありますが、我妄想もいよいよ冴え渡り・・・に至るものなのか?、さらにさらに精進しなければと思うところです・・・汗
しかしながら、「新説は江戸から現れる」の例えどおり、明治期以降に遠野から散在した資料が、いつ、日の目を見るかわかりませんが、地元人はこつこつと足で歴史を追いましょう!
学生の頃より、中国史が三度の飯より大好きでして・・・
中国の正史って、怪しいもんなんですよね。
そもそも、前王朝を倒した王朝が歴史を書く訳ですから。
前王朝が倒されても仕方が無かった的な文章が散りばめられているのですから・・・
ですから、中国史の基本は「正史+野史」なんです。
まぁ・・・中国の野史の95パーセントは「トンデモ本」ですが・・・
んでも、その数パーセントの中には、現王朝の目を盗んで書かれた「真実」みたいなものもあるのです。
野史が歴史の暗部をあぶり出し、正史の誤りを正す。
こういうコトが中国史ではザラなのです。
とらねこさんのような「在野の歴史家」の方々の地道な活動こそ、長い目で見ると大切だと思うのです。
追い求めるものだけが真実に触れられる。
ワタクシ、タイヘンな人とお知り合いになったのでふか?
福島県の阿沼郡・・・会津地方ということですが、現地に行って調べたわけではありませんが、地図なんかで調べても阿曽沼氏に繋がる地名は見えてきませんね。
それと以前から少し話題となった学者の先生、担がれたという思いはその通りかと思ってます。
しかし、提唱する説は妙に説得力がある部分もあって未だに私には乗り越えなければならない見解もあったり、こういった部分では参考になっております。
まっ、お互い地元でコツコツですね、これはその通りかと思います。
ひろゆさんも歴史関連には詳しいとは存じておりましたが、中国史ですか、遠大で奥が深そうですね。
何処の国でも勝者の歴史が語られる、まさにその通りですね。
在野とくれば三国志の世界を思い出します、在野の武将、軍師・・・諸葛亮にはなれませんが、遠野の歴史分野で地道に頑張りたいと思ってます。
志は高いところを目指すも鍋倉山にも達せず、学校の砂場の砂山程度かと思います・・・笑
いつ崩れるかわかりませんしね・・・汗
ただの親父ですよ、ガッチャマンで飛べ~・・・と奇声を上げ、ドロン如ちゃんや一如姐さんの手を握って幸せと感じる親父です・・・汗
今度、ご一緒に女性陣のおてて当てクイズでもしましょう・・・笑
オイラのおてて・・・ 同僚から
「やぎもぢのよんた手」と言われております(爆
ほれ、あづみがあるすぺ(笑
焼餅好きでやんすよ・・・笑
おてて当てクイズ、是非にかだってください・・・笑
福泉寺もこの前訪れたときよりもさらに新緑が鮮やかになってますね。
阿曽沼と浅沼がイコールでない・・・。
私もイコールだと思っていたので少々驚きました。
もっともらしい話でも、かならずしも正しいというわけではないということもありそうですし、こういうのは興味深いというか非常に楽しいですね。
見解を示された学者先生の方は、古文書を訳される立場では一流だったはず、その文面から判断しての内容はかなり説得力がありますが、ちょっとやりすぎがあったみたいで、あまり評価はされておりません。
でも興味深いことはそのとおりで結構参考になります。
確かにここまでくると楽しいもありますね。