画像は12月1日の撮影です。
12月1日、江刺区梁川の高間館跡を探訪し、その遺構のすばらしさに感動した余韻も束の間、遠野市内にとって返して今季の探訪箇所として選定していた綾織町長岡の丹内神社付近に残されているという舘跡を探訪いたしました。
丹内神社入口
館として機能していた時代の堀跡を参道としたものと推測される。
☆丹内館(丹内神社・別名 不明)・・遠野市綾織町手代森 丹内
遠野市綾織町長岡地区の丹内神社一帯が館跡であったと考察されている。
標高282メートル・比高49メートルの山城
残されている遺構としては・・・
空堀跡、段丘、土塁・・・神社、墓地跡、別当家屋敷跡(平場)
館主は不詳、築使用年代は安部時代とある。
斜度の少しきつい、かつては堀跡と思われる参道を70~80メートル程進むと前方に茅葺屋根で市内では大きめのお堂(丹内神社)が見えてくる。
お堂の広場下は杉林となっており、木々が鬱そうとしているが、階段状の腰郭が数段展開されているのが確認できる。
今回はお堂脇を通り、まずは東側から探訪、低い笹竹が密集しているが、斜面には数段の段差が確認できる。
そのまま、お堂の背後の平場へ移動すると、2重の空堀が横断しており、特に2重目の空堀は、案外大きく、深さ2.5メートル、幅3メートル弱の立派な空堀跡を確認いたしました。
空堀はそれぞれ東西の斜面へカーブしながら下っております。
山野を横断する空堀跡(2重目)
2重目
また、空堀を越えた背後は低い山頂となっており、北側斜面は杉林、山頂を少し北西側に進むとさらに高い山野となっており、西側斜面は笹竹が密集しており図面には2段程度の帯廓が記載されているも、笹竹により画像では確認できない。
少し進んだ山野の峰には、遠野町の袖高屋館跡でみた水路跡と思われる溝が2重ほど確認された。
産鉄に関わる鉄穴流の跡なのだろうか?・・・綾織の手代森(長岡から山口)一帯は、かつて砂鉄が豊富だったと考察され、鉄さいが見られる場所も存在しているといわれ、丹内の「丹」は「鉄」を表す時代もあったといわれ、産鉄に何かしら関わっていた地域であったと考察されております。
ここ丹内神社に関する概要は、ほとんどわからず・・・それでも考えられる書籍や資料等は一応目を通したつもりですが、綾織の丹内神社に関する記述等は確認できなかった。
この方面は、いずれ笛吹童子氏等がご紹介するものと期待しております。
結構大きく立派なお堂ではありますが・・・・
裏側に回ると屋根は落ち、床も抜け落ちている状態でありました。
手持ちの館跡資料によりますと、享和2年(1802)の百姓一揆で、丹内神社は藩主から閉門1万日(約30年)の処分が下され、以来神社は荒廃し、やがて地域の人々からもその存在を忘れられたとのこともあり、伝承等も残されていないとある。
お堂を見ると茅葺屋根とはいえ、そんなに古い建物でもないような・・・。
地域のとある御仁にお聞きしましたが、昭和30年代、その方が小学生、中学生の頃は夏休みとなると地域の子供達で丹内神社のお堂で学習道具を持参で勉強会等をしていたという。
また、僅かな記憶ながらも、大人達に交じってお堂内で煮しめや漬物といった料理を持ち寄って宴が行われていたといいますから、例祭や宵宮といったことが執り行われていたものと推察されます。
さらにお堂奥の北側にはかつての共同墓地があって、お堂脇に通い道があったといい、今は墓地も別場所となり誰も通る人は無くなったようでもあります。
この方も社会人となってからは、ほとんど丹内神社に行ったことはなく、屋根が抜け落ち荒れているだろうと予想はしていたが、ここ20年は行った事はないという・・・・。
ピンボケですが内部の画像・・・・
一応錠はありましたが、鍵がかかっていないが現状、しかし一人の力では引戸を開けることは叶わず・・・といいますか開かなかった・・・汗
お堂の建て替えか屋根の吹き替えでの地域の方々からの寄付等を示す氏名がずらり書き並んだ板も確認できましたが、画像に収めることはできず、また字が見えなかった(離れ過ぎていて)・・・汗
ということで、神社の由来やその歴史といったことではなく、あくまでも舘跡としての探訪ということをお含み置き願います。
入口
12月1日、江刺区梁川の高間館跡を探訪し、その遺構のすばらしさに感動した余韻も束の間、遠野市内にとって返して今季の探訪箇所として選定していた綾織町長岡の丹内神社付近に残されているという舘跡を探訪いたしました。
丹内神社入口
館として機能していた時代の堀跡を参道としたものと推測される。
☆丹内館(丹内神社・別名 不明)・・遠野市綾織町手代森 丹内
遠野市綾織町長岡地区の丹内神社一帯が館跡であったと考察されている。
標高282メートル・比高49メートルの山城
残されている遺構としては・・・
空堀跡、段丘、土塁・・・神社、墓地跡、別当家屋敷跡(平場)
館主は不詳、築使用年代は安部時代とある。
斜度の少しきつい、かつては堀跡と思われる参道を70~80メートル程進むと前方に茅葺屋根で市内では大きめのお堂(丹内神社)が見えてくる。
お堂の広場下は杉林となっており、木々が鬱そうとしているが、階段状の腰郭が数段展開されているのが確認できる。
今回はお堂脇を通り、まずは東側から探訪、低い笹竹が密集しているが、斜面には数段の段差が確認できる。
そのまま、お堂の背後の平場へ移動すると、2重の空堀が横断しており、特に2重目の空堀は、案外大きく、深さ2.5メートル、幅3メートル弱の立派な空堀跡を確認いたしました。
空堀はそれぞれ東西の斜面へカーブしながら下っております。
山野を横断する空堀跡(2重目)
2重目
また、空堀を越えた背後は低い山頂となっており、北側斜面は杉林、山頂を少し北西側に進むとさらに高い山野となっており、西側斜面は笹竹が密集しており図面には2段程度の帯廓が記載されているも、笹竹により画像では確認できない。
少し進んだ山野の峰には、遠野町の袖高屋館跡でみた水路跡と思われる溝が2重ほど確認された。
産鉄に関わる鉄穴流の跡なのだろうか?・・・綾織の手代森(長岡から山口)一帯は、かつて砂鉄が豊富だったと考察され、鉄さいが見られる場所も存在しているといわれ、丹内の「丹」は「鉄」を表す時代もあったといわれ、産鉄に何かしら関わっていた地域であったと考察されております。
ここ丹内神社に関する概要は、ほとんどわからず・・・それでも考えられる書籍や資料等は一応目を通したつもりですが、綾織の丹内神社に関する記述等は確認できなかった。
この方面は、いずれ笛吹童子氏等がご紹介するものと期待しております。
結構大きく立派なお堂ではありますが・・・・
裏側に回ると屋根は落ち、床も抜け落ちている状態でありました。
手持ちの館跡資料によりますと、享和2年(1802)の百姓一揆で、丹内神社は藩主から閉門1万日(約30年)の処分が下され、以来神社は荒廃し、やがて地域の人々からもその存在を忘れられたとのこともあり、伝承等も残されていないとある。
お堂を見ると茅葺屋根とはいえ、そんなに古い建物でもないような・・・。
地域のとある御仁にお聞きしましたが、昭和30年代、その方が小学生、中学生の頃は夏休みとなると地域の子供達で丹内神社のお堂で学習道具を持参で勉強会等をしていたという。
また、僅かな記憶ながらも、大人達に交じってお堂内で煮しめや漬物といった料理を持ち寄って宴が行われていたといいますから、例祭や宵宮といったことが執り行われていたものと推察されます。
さらにお堂奥の北側にはかつての共同墓地があって、お堂脇に通い道があったといい、今は墓地も別場所となり誰も通る人は無くなったようでもあります。
この方も社会人となってからは、ほとんど丹内神社に行ったことはなく、屋根が抜け落ち荒れているだろうと予想はしていたが、ここ20年は行った事はないという・・・・。
ピンボケですが内部の画像・・・・
一応錠はありましたが、鍵がかかっていないが現状、しかし一人の力では引戸を開けることは叶わず・・・といいますか開かなかった・・・汗
お堂の建て替えか屋根の吹き替えでの地域の方々からの寄付等を示す氏名がずらり書き並んだ板も確認できましたが、画像に収めることはできず、また字が見えなかった(離れ過ぎていて)・・・汗
ということで、神社の由来やその歴史といったことではなく、あくまでも舘跡としての探訪ということをお含み置き願います。
入口
産鉄というより、産金に係わり大と思います。
丹、丹生、ニフなどは古来、水銀を指していたとの説があります。水銀は金の精錬過程で重要な役割を担っており、金山そのもの以上に珍重されたとか・・・
あ、多分もうご存知の話ですよね。
荷沢峠辺りも水銀の鉱脈ありと察します。
産金に関するご教授痛み入ります。
なるほど・・・といった思いがいたします。
丹内神社といいますと花巻市東和町に県内でも有名な神社がありますが、どうしてもこことの関連がいの一番に頭をかすめるもので、東和の場合は産鉄に関連しているという考察もあって、そちらの内容からといった考えでもありました。
産鉄、産金・・・いずれにしても興味をそそられます。
今はその信仰も忘れ去られたといった雰囲気も感じられ、社は荒れ果ててはおりますが、それでも趣はいい感じでもあり、一度お出でになられてみられるのも良いと思います。
地名として長岡の丹内という場所でもあり、謂れも古いイメージがいたします。
今回、ご同行を願うつもりではおりましたが、勢いで独り訪ねてしまいました。
二人なら戸を開けることも出来たかもしれません。
もし独りで行かれるのでしたら御一報いただければ再訪もやぶさかではありませんよ。
こちらの丹内神社、寂しい雰囲気のところで御神体は別当さんのところか?とにかく荒れております。
笛吹峠、日中であれば支障なく通行できると思いますが、日蔭なんかは凍結や残雪もありそうです。
新しい仙人道、遠野から釜石の街まで30分弱、笛吹峠を越えて大槌までの時間はどちらも変わらないものと思いますが、こういう場合は無難に安全な方を選択した方がよいかもしれませんよ。
週末からは寒波も来るとか、いずれお気をつけてお出かけください。