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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

駒木史考 壱

2005-11-02 19:12:21 | 歴史・民俗
 太古の遠野は湖・・・・ご覧の画像でもなんとなく遠野盆地は湖水の中という考えがないわけではないっ・・・。
 山の突端が岬を形成していた感じもしないわけでもないっ・・・古来より伝わる伝承からすれば、湖だったかもしれません。

 さて、私の住む松崎町駒木・・・いつから駒木と呼ばれていたのかは定かではない、少なくても戦国時代には駒木と呼ばれていたのだろう・・・これは駒木に駒木氏という武将が居たと伝えられ、その舘跡も現存し、さらに慶長年間に南部氏(盛岡南部)から駒木地区を任された駒木豊前なる武士が居たこと、後に駒木氏は遠野を離れ南部藩士として血脈を伝えていること、このことからもみてとれます。
 ちなみに駒木氏は本姓を菊池と称します。

 駒木は言い伝えによりますと鎌倉御家人で下野国の阿曽沼広綱が源頼朝から遠野郷を拝領、阿曽沼氏の代官として赴任した宇夫方広房が駒木に仮館を築いたが始まりとされております。駒木には阿曽沼舘とよばれる跡地も残され、何かしらの記憶によるものと思いますが、残念ながらこのことを含め、鎌倉方から遠野を拝領したという古文書、記録一切は現存していない。
 
 もっとも遠野という名が出てくる国内最古の文書は建武年間における陸奥守、北畠顕家から権断職の南部師行に出された国宣に「遠野保」とあり、おそらくこれ以前より遠野と呼ばれていたものと思われます。

 宇夫方氏が当初、駒木の地を統治の中心とした理由は、色々と論ぜられておりますが、まずは現在の遠野の中心地、遠野や白岩地区は太古の遠野の名残で湖水の中、或いは湖沼が点在していたのではと考えられ、駒木地区は早くに干上がり、農地として活用されていた地域で、さらに経済基盤も整えられていたのではとも言われている。当時の遠野は駒木、附馬牛、さらに土淵方面が開発されていて、こちらが中心だった・・・と考えた方がよさそうでもある。

 ということで、折をみてつづきを掲載していきたいと思います。

 画像は妻の神、耳切山山頂からみた遠野盆地・・画面中央が駒木地区の上、下駒木、中央右端が矢崎
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紅葉

2005-11-01 14:59:56 | 遠野
 今年に入って毎月の初めには、一年は早いとか、一ヶ月はあっという間とか、こんなコメントが多いと感じておりますが、それでももう11月・・・やはりは年月の流れは早く感じてしまう、二週間もすれば初雪が降るかもしれないし、氷点下の朝も既にありましたが、今後さらに冷え込みが厳しくなる季節柄でもあります。

 さて、今回の話題・・「紅葉」・・今が盛りか、少し盛期は過ぎたところか、山々はそれなりに色付いているが、数年前から感じていることですが、紅葉の時期が少し遅くなったのではないのか、そんな気がしてならない。
 私が子供の頃は、福泉寺のお祭りといえば境内が色付いていたものですが、今年も含めてここ数年の10月17日、山頂の一部が色付いているだけで、まだまだ紅葉には早かった。それと福泉寺のお祭りが終ると地域一斉に稲ごぎ(脱穀)がはじまるのですが、山々は赤や黄色、オレンジの色がくすみ、晩秋の佇まいでもあり、11月となれば、ほぼ落葉の季節といった印象でもありました。
また稲ごぎ前には小学校時代、恒例の秋の写生大会があったのですが、この時描く山々はほとんと真っ赤、真黄色、オレンジ等、色鮮やかといった記憶もあり、キャンパスといいますか画用紙にこれらの色を点々・・と付けていくだけで山の紅葉らしく描けたとも記憶しています。
 子供の頃の純な心が山々の紅葉を色鮮やかなものに見せていたのか、それとも歳を重ねて、色んなものを見てきた心が歳と共に綺麗なものもくすませてみせているのか・・・綺麗なオネエサンだけが綺麗と思えるただオヤジと成り果てたか?・・笑・・・汗・・。
 まあ~冗談はさておき、最近叫ばれる温暖化か、山の木々が広葉樹から杉などの針葉樹に変わったせいなのか、それとも他に何かあるのか・・専門的なことはわからないけど、家から見渡す山々は色鮮やかな絨毯を敷き詰めたような紅葉、すくなくても幼い頃の印象の紅葉とは少し違ってきている、そう思えてならない・・。

画像は福泉寺大観音付近の紅葉・・・11月1日現在
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