昔の人は凄い・・・また世のため人のためになることを身銭をはたいて成し遂げる・・・今に暮す現代人に果たしてこれだけのことを成す人はいるのだろうか?・・・少なくても私はできない・・・。
四戸長作・・・
寛政7年(1795)土淵高室の農家に生まれる。水田5町歩を力耕して自給すると、横田村(遠野城下)の神明(六日町)に移り住み、水車小屋を立てて春米(臼で米、雑穀)を打って生計を営んだ。
農業基盤安定を図る目的で、猿ヶ石川の氾濫を防ぎ、沃土を開墾して水田を増やすことを思いつき、まずは堤防を築くも脆くも水害で流出、時の領主に懇願して堤防工事を推し進め、ついに苦節9年、天保14年(1843)堤防が一応の完成をみる。
長作が今に語られる人物としては、堤防建設に他ならないが、飢饉等で失業するもの、食い扶持を失ったものを雇用、三度の食事を与え、手間賃も支払うといった細民救済をも兼ねての事業でもあったこと、また監督的な立場ながら自らも額に汗し、共に労苦を分かち合ったということも語られている。
この事業により猿ヶ石川の氾濫はなくなり、5町6反余りの荒地が新田となり、これらをすべて領主に献上、褒美としてすべて長作に下げ渡されたが、それでも普段から贅沢はせず、常に粗服をまとい農耕に勤しんで天寿を全うしたといわれております。(文久3年1863)永眠・71歳。
四戸長作は本姓を高室と称するが、事業成功により名字帯刀が許されるに四戸を名乗る、後にご子孫は本姓の高室に復した。
画像は愛宕橋付近からみる猿ヶ石川と堤防
四戸長作・・・
寛政7年(1795)土淵高室の農家に生まれる。水田5町歩を力耕して自給すると、横田村(遠野城下)の神明(六日町)に移り住み、水車小屋を立てて春米(臼で米、雑穀)を打って生計を営んだ。
農業基盤安定を図る目的で、猿ヶ石川の氾濫を防ぎ、沃土を開墾して水田を増やすことを思いつき、まずは堤防を築くも脆くも水害で流出、時の領主に懇願して堤防工事を推し進め、ついに苦節9年、天保14年(1843)堤防が一応の完成をみる。
長作が今に語られる人物としては、堤防建設に他ならないが、飢饉等で失業するもの、食い扶持を失ったものを雇用、三度の食事を与え、手間賃も支払うといった細民救済をも兼ねての事業でもあったこと、また監督的な立場ながら自らも額に汗し、共に労苦を分かち合ったということも語られている。
この事業により猿ヶ石川の氾濫はなくなり、5町6反余りの荒地が新田となり、これらをすべて領主に献上、褒美としてすべて長作に下げ渡されたが、それでも普段から贅沢はせず、常に粗服をまとい農耕に勤しんで天寿を全うしたといわれております。(文久3年1863)永眠・71歳。
四戸長作は本姓を高室と称するが、事業成功により名字帯刀が許されるに四戸を名乗る、後にご子孫は本姓の高室に復した。
画像は愛宕橋付近からみる猿ヶ石川と堤防