「それに私はね、そんな下品な事の仲使いなんかもしていませんからね。」
母のこの言葉に、窓辺の婦人は目を瞬くと呆気に取られてしまいました。母の言った言葉が直ぐには全く理解出来無かったからでした。
それで夫人は、無言の儘で窓辺に手を掛けると、今までの自分達2人の会話を頭の中で反芻してみます。その内彼女はハッとして、目が白黒したかと思うと、顔が俄かに黒く搔き曇りました。そして目がピンと細くつり上がったかと思うと、顔色も酷く白く変わり、その表情は微動だにもせずぴしっと固まってしまいました。彼女の頬はピクリとも動きません、まるで能か何かの踊りの面の様でした。それまでの彼女の愛想のよい柔和な顔付きは消え、一変して彼女は怒りの形相に変わったのです。
さて、窓外にいた母娘です。彼女達には窓辺の女性の顔の変化や、その内面の心理等は全く読み取る事が出来ません。婦人の胸中にはゴーとばかりに燃え盛る屈辱の怒りが渦巻くと、暫くは言葉のコの字も出せませんでした。その後、彼女は怒りが頂点に達し、その心頭に発した怒りの為に頭上から心身全体にビシッと氷が張り始め、彼女の上から下へと氷が凍り付いて行く様な状態になりました。彼女の周りには冷え冷えとした冷気が漂い始めました。母はその様な相手に背を向けると、如何にもしてやったりという顔付きになり、相好を崩すとぺろりと舌を出しました。
私はこの大人の女性2人のやり取りを一部始終見聞していましたが、終始その意味するところは全然分かりませんでした。元々2人の言い出した「恋の悩み」も「恋の病」も、私には初めて聞く言葉でした。悩みや病はほぼ理解でるのですが、その言葉の先にある「こい」という物が分かりません。魚の「鯉」でさえまだ知らない時期の話です。2人のやり取りが全く分かろう筈がありません。母の出す舌や笑う顔に、2人はふざけているらしい、面白い話をしているのだろう、私には分からない大人の話だ。と判断しました。『それなら子供の私が傍にいて聞いていても分からない、詰まらない。』と思うと、もう先に1人で家へ帰ろうと思いました。こんな場合何時もするように
「先に帰ってるね。」
私はそう母に声をかけると、同時に駆け出し、母をその場に1人で置いて家に帰って来てしまいました。