旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

278 成田の皆さん有難う! 

2012-12-01 06:58:31 | 思い出日記
 月日は早い物、もう成田の勤務を退職したのは3年半前になりました。今となって何をしていたか忘れてしまっている事が多くなってきました。成田での生活を思い出す為に整理しようと思います。

 大阪で航空会社の営業を長年やっていてました。勤め始めた頃、本社(当初はNYCにありました)に行くのに主にサンフランシスコ(SFO)、ロサンゼルス(LAX)そしてホノルル経由で本社迄、ファストクラスを利用できるのでパンナム機で太平洋間やハワイ迄を利用して良く行きました。    
 SFO,LAX空港は日本人の為に、乗り換えカウンターがあって職員も凄く良くて便利に乗り換える様になっていました。旅行も随分様変わりしましたが、当時はSFO、LAX、そしてハワイによるのが定番のアメリカツアーでした。良き時代で、アメリカの国内線を売るだけで良かったのですが、日本路線就航する等路線も増えて、大阪就航もあって営業は順調に伸びて来たのです。
 思い出しましたが、大阪に就航予定している時でした。世界でも有数で弊社10万のスッタフがいる会社のCEOが来るのに、関空の代表は会ってやると言う態度であったと言う事でした。それに知事は会わずに副知事が会う、大阪はどうしようも無い程世界が狭かったと思いました。

 話は戻り、所が9月11日の同時多発テロに依って奈落のそこに落ちました。ご多分に漏れず業務縮小、そこで東京に行って営業ヘルプか、成田のエージェントと2つの道でした。決めたのが、空港業務で単身赴任、成田勤務となりました。

 50歳を過ぎてから、殆ど転職と同じでした。初めての関東地方で空港勤務、これ程しんどいとは知りませんでした。済みません、空港業務を軽く甘く見ていました。又、別に詳しく述べますが、自分がそんな空港の仕事をやっていたとは信じられません。そして、もっと周りに気を配らなくてはいけない年なのに、私が面倒みられていました。本当にどん臭いオジサンでした。いづれにしても、遅いですが成田の皆に感謝しているのは変わりありません。遅くなって申し訳無いですが、有難う御座いました。

 成田では極貧の生活を送る積もりで、野草を食べるつもりで‘食べられる野草’の本も買いました。とりあえず住む所を探さなくてはいけなかったのでした。何も分らずに京成電鉄に乗ったままで周りの雰囲気を見ましたが、殆ど田んぼばかりで1駅が長く感じました。大体の雰囲気が分ったと思い、やっぱり航空会社(ANA)仲間の忠告に従って、戻って酒々井(しすい)に決めました。

 ネットで見た所が順天堂大学の近くで、駅からとても歩ける所で無かったのでした。途中で引き返して成田市内を探そうと京成酒々井から町を横切りJRの駅前に行きました。出発まで時間があったので、駅前の不動産屋さんに行き一番安いアパートを聞きました。そこで28,000円で水道は地下水で無料、共益費1,000円安いと即決めました。

 その部屋は電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛ぶと言う、17アンペアの電圧ででした。モット早く気付けば良かったのですが、情けない事に出る半年前にそれを知り交換しました。酒々井は京成電車とJRが町の両端にあって黒沢明の用心棒の映画を何時も感じていました。でも、住めば都、酒々井は良い所でした。
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