1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(1)
メーヌ・ド・ビランの名が西田のテキストの中に初めて現れるのは、『善の研究』の出版の前年一九一〇年であり、二度目に現れるのは一九一四年であるが、どちらにおいても、ベルクソンにおいて頂点に達すると西田が見なしているコンディヤックに淵源するフランス直観主義の系譜の中にその代表者の一人としてビランは位置づけられているということがわかるだけである。西田のビランに対する関心の所在がどこにあるか特定することができる最初のテキストは、一九二一年に発表され、後に『藝術と道徳』(一九二三年)に収められる論文「感情の内容と意志の内容」である。
この論文の中で、西田は、ビランによる「能動的習慣」と「受動的習慣」との区別に言及しているが、それは、対象化不可能な作用としての意識からその内容を区別することが問題になる論脈において、言い換えれば、単に知解する我ではなくて「悲しむ我、喜ぶ我」によって生きられた意識における動的な統一性が問題となる場面においてである。つまり、意識が知性によって再構成される対象としてではなく、作用そのものとして自らに直接に経験される内的経験へと導く哲学的探究の途上において、西田はビランの哲学に出会うのである。
ビランは、習慣が諸感覚と悟性の諸操作とにもたらす効果を分析しながら、感官への刺激に由来する諸感覚が反復によって弱まる一方、意志によって起動された悟性の諸操作は、それにつれてより容易になり、正確になり、速くなることを確認する。習慣は、反復によって自動化され、もはやそれとして感じられなくなり消失していく感覚と反復によってより速く明晰になっていく知覚とが区別されていく経験における試練の過程と見なされる。つまり、習慣の成立過程において、一方に感覚的印象の退化と消失へと至る受動性があり、他方に知覚の高速化と明晰化をもたらす能動性があるということである。言い換えれば、習慣は、一般的な生命の原理に属していて私たちの自己の権能には属さないものを退化させる一方、私たちの意志的自己の権能に属するものを強化するということである。ビランは、習慣におけるこの両過程を区別して、前者を「受動的習慣」と呼び、後者を「能動的習慣」と呼ぶ。
西田は、このビランによる区別が意志に帰属するもの、私たちの自己の権能に属するものを明晰判明に把握することを可能にするという点において評価する。そして、能動的習慣を意志的努力において直接的に把握される意識作用と見なす。ビランによれば、習慣が私たちに与える直接的な感情と共に、受動的感覚においては、すべてが絶えず変化してゆくまさにその全過程を通じて保たれ続ける対象化不可能な自己の恒常的な統一性と同一性の内的な直接把握が私たちに与えられる。西田は、この「〈私〉の内的直接的覚知」に特に注意を集中する。つまり、対象化不可能なものとして意識の根柢において働いている能動的自己の直接把握が西田にとっての問題なのである。
確かに、能動的習慣は、自己の統一なしにはありえない。しかし、このことは、習慣と〈私〉の内的直接的覚知とが直ちに同一視されうるということを意味しない。というのも、習慣には、それが知解作業をより容易にするにつれて、意志的なものと非意志的なものとの区別を消失させ、主体からその意志的な行為を奪い去り、その活動意識を奪い取って感覚の受動性へと知覚をほぼ還元してしまい、果ては原初の意志的活動から切り離された知覚的な結果しか残らないという否定的な側面がいつも含まれているからである。
なにゆえ、習慣は、思考に翼を与えておきながら、その思考に自らおもむくままに飛翔させず、それを執拗に同じ方向に縛り付けるのか。
Pourquoi, après avoir rattaché des ailes à la pensée, l’habitude ne lui permet-elle pas de se diriger elle-même dans son vol, au lieu de la retenir opiniâtrement fixée dans la même direction ?
Influence de l’habitude sur la faculté de penser, p. 270.
西田は、この習慣の否定的側面をまったく無視、あるいは見落としているように思われる。ところが、まさにこの点において、習慣と自己の内的直接的覚知とは区別されるのである。事柄の順序からして、後者は前者の形成に先立つ。習慣は、それ自身がその形成の起動因ではありえず、したがって、それに先立つ作用因を必要とする。この原因 ― ビランが「原因-自己 cause moi」(「原因としてしか存在せず、感覚されえない原因-自己」« cause moi qui n’existe et ne peut se sentir que comme cause » (Nouveaux essais d’anthropologie ou de la science de l’homme intérieur, p. 244) )と呼ぶもの ― は、習慣の成立の手前でそれとして把握されなければならない。ビランによれば、「原因-自己」とそれが生じさせる運動との区別は、習慣の形成過程の内的観察によって要請されるものである。ビランにおいては決定的な重要性を持っているこの区別を無視、あるいは見落とすことによって、西田は、能動的習慣と直接的内的覚知を同一視してしまう。この同一視は、当然のことながら、ビランの習慣論の解釈としては正当化されえない。しかし、少なくとも、私たちは、西田のビランに対する関心が意志的活動の第一原因である能動的自己に照準を合わせたものであったことをそこから読み取ることができる。