内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(九)

2014-04-23 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(1)

 論文「論理と生命」は、最後期西田哲学の諸論文の中でも最も重要な内容を持った論文の一つである。私たちは、ここでもこの論文に主に依拠しつつ、「行為的直観」という西田哲学の中でも最も独創性に富んだ概念の一つによって開かれるパースペクティヴの中で、知と身体との関係という問題を考察してみよう。
 まず、同論文のこの問題についての論旨を、西田のテキストからの引用を混じえずに、私たちの側で術語を統一しつつ、整合的な仕方で抽出することを試みる。
 行為的直観という概念は、つねに二重の契機と双方向的な二重の観点から規定される。私たちの身体的自己の観点からは、行為的直観は、世界における行為的身体の実存様態として定義できる。人間の身体がそこにおいて行動する世界の観点からは、行為的直観は、人間の身体を取り巻く自己形成的な世界の原初的な形成様態として定義される。このように身体の実存契機と世界の構成契機という二重の契機を持った行為的直観は、歴史的生命の世界の初源の知でありかつ原初的な力能であり、それゆえ、世界の中で私たちの行為的身体によって獲得されるあらゆる知の源泉に他ならない。このことは、また、世界の形成要素としての制作的身体と自己限定的場所としての歴史的生命の世界との間に生れ、保持される現実的関係にしたがって、知識は形成されるということを意味してもいる。
 私たちの行為的身体は、自らを取り巻く世界に対して働きかける有限な存在であるかぎりにおいて、その世界を見る。世界内のある観点から見る存在であるかぎりにおいて、世界に対して働きかける。これを世界の側から見れば、世界は、〈見るもの-見えるもの〉である私たちの身体において、自らを自らの内で受容するということである。世界は、私たちの行為的かつ受容的身体を通じて、自らに自らをある一定の形において現われさせる。それが西田のいう「世界の自己形成」である。世界の自己受容契機と自己形成契機とは、いずれも、行為的直観を実行する私たちの行為的身体の根本的な構成契機として不可分である。行為的直観が開く領野において、私たちの身体は、世界の原初的な知の生誕地となる。私たちの行為的身体は、実践的課題が問題となる実践知の源であるばかりでなく、普遍的理性の問題が問われる理論知の源でもある。
 世界の初源の知は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的である私たちの身体において、生れる。その知は、身体が世界から一つの形を受け入れ、まさにそのことによって世界に一つの形を与えることから、身体において、生れる。行為的直観の二つの根本的構成契機である〈見る〉と〈働く〉とは、この初源の知の生誕において協働する。したがって、行為的直観の能動的側面と受動的側面との間の優位性という問題はそこには発生しない。世界の初源の知は、行為的身体の身体的行動によって生れる。この行為的身体こそが、働きつつ見ることからなる原初的な生命を具現化することによって、世界における初源の知の生誕地となる。
 私たちの身体は、実践の世界の中で働くものとして、すべてのものを見る。この世界では、諸対象は何らかの仕方で一定の用途のための道具として私たちに現れる。この日常的に私たちが経験する事実は何を意味しているのか。私たちの身体は、自らに対してそのように現れる諸対象の只中に投げ込まれていること、その諸対象からなる構成形態の中で行動することができることを意味している。しかし、それだけではない。私たちの身体は、それらの諸対象がそのようなものとして在る場所にそれを見ているまさにそのことによって、それらの諸対象を、それらの只中にあって、受け入れているということを意味してもいる。行為的身体は、世界に対して超越的な固定的観点として認識するではなく、世界内在的動的・可変的観点として働くことによって認識する。