内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十一)

2014-04-11 00:12:37 | 哲学

3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(2)

メーヌ・ド・ビランは習慣を能動的と受動的とに区別して居るが、行為的直観によって一つの世界が自己自身を構成すると考えられるかぎり、それは永遠の今の自己限定として、そこに永遠なるものの内容が映され、イデヤ的なるものが見られると云うことができる。能動的習慣というのは、歴史的世界の自己限定の立場から云えば、行為的直観と考うべきものである。それは歴史的生命の発展と考えられるものである。併し能動的習慣というのも、歴史的には畢竟受動的となって行くものである。そして却って我々の生命の発展を抑制するものである、その極、我々を物質化するものである。

 能動的習慣を行為的直観として捉え直しながら、西田は、それを歴史的生命の世界の自己表現であると考える。そこにおいて能動的習慣は「永遠の現在」に属するものを、つまり永遠に働きつづけるものを反映している。習慣は、「実体的に無なるものの自己限定」なのである。習慣のこの肯定的な側面は、自己に先立ついかなる実体も前提せず、自ら自己限定するという生命の本質に対応する。
 しかし、このテキストで特に注目すべきことは、これまで私たちが見てきたビランの能動的習慣に言及している西田のテキストではまったく問題とされることがなかった、能動的習慣にも必然的に含まれているその否定的な側面がきわめて明確に指摘されていることである。一つのスタイル、あるいは一つの慣習的な所作となることで、習慣は、歴史的現実の世界の中でその「歴史的生命」を失っていく。習慣において、歴史的生命の世界の対立的でありかつ不可分な両側面、限定されたものであるということと自己自身を限定するものであるということとが、つまり受動性と能動性とが同時に顕現するのである。まさにこの対立しかつ不可分の二側面を同時に考えうる次元として、西田は、行為的直観の世界を構想している。そこでは自己身体がこの両側面の結節点として行動する。
 このように習慣の世界を歴史的自然の世界の只中に位置づけたうえで、西田は、見方を百八十度転回させる。つまり、今度は、習慣概念から歴史的自然の世界の成立を捉えようとし、私たちの行為的身体において顕現する習慣の原理を歴史的自然の世界の構成に適用するのである。「歴史的世界の自己限定は習慣的構成として、一つの歴史的自然として、自己自身を限定する。」この立場から、一方で、自然の世界は恒常的に一定の仕方で限定され、可変軸である時間性が極小化された習慣からなる世界と捉えられ、他方で、表現的身体としての私たちの行為的身体は、能動的習慣によってイデアを見ることができる身体として捉えられるが、それは、能動的習慣が永遠に非実体的に作用し続けるものに時間的に限定された形態を与えることからなるからである。能動的習慣は、実体を前提することなしにある形を自らに与える作用として、表象化を必然的に逃れるものを、今、ここで、表現する。能動的習慣が「永遠の今の世界」をもたらすのであり、この世界は、「習慣的存在として、習慣的に自己自身を限定する」。