内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(七)

2014-04-21 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(3)

 歴史的世界の中での意識の有り方を、最後期の西田哲学の論脈において、今一度明確にしておこう。
 世界は、自らの内において自ら自身を見る。このテーゼに見られる世界の自己関係性は、自覚の基本構造である「自己が自己において自己を見る」という関係性とまさに対応する。西田がこの世界の自己関係性を「世界の自覚」と呼ぶ所以である。この世界の内在的自己反省性は、その世界のうちにおいて働く、私たちの個別的身体的自己において現実化される。西田はこの事態を次のように表現する。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」(全集第九巻五二八頁)。
 最後期の西田哲学は、世界の自覚と私たちの自己の自覚との「絶対矛盾的同一」性という原初的・根本的経験というパースペクティヴにおいて、意識を世界内に到来した出来事として捉えている。意識がそのようなものとして世界内存在である私たちの身体的自己において把握されるのは、世界が私たちの自己にとって身体を通じて連関する全体として現われ、技術を介していわば私たちの自己の最も拡張された延長となるときであり、それは同時に、世界の側から見れば、私たちの自己が世界の只中にあってその世界の身体的延長として感じられるときでもある。それゆえに、世界に現れるすべてのことは、私たちの自己にとって、世界の内側から見られたものとして現われる。言い換えれば、世界に現れるすべてのことは、それ自身に対してつねに同一的であり、私たちにまったく無関係な即自存在としてではなく、自らが自らに対して現れるという作用の内容として現れるということである。この意味において、意識とは、自らを自らに対してある限定された形で現われさせるという世界自身の自己関係作用の顕現形態であると言うことができる。
 上述のような意識の規定に基づくとき、現象学的態度と西田哲学の態度との決定的違いは、それぞれの態度が世界との関係において意識に与える位置の違いにあることがよくわかる。現象学的態度にあっては、自己に対して自己自身を現われさせる作用は、超越的自我の作用として記述され、この作用の構成契機として現れるものは、そのかぎりにおいて、それとして記述される。したがって、世界は、超越論的自我に他ならない純粋意識に対して現れるかぎりにおいて現れる。それに対して、西田哲学では、自己に対して自己自身を現われさせるこの作用は、世界の自覚という世界の只中での事柄として把握され、それが取りも直さず私たちの行為的・身体的自己の自覚であるがゆえに、世界の裡での場所的転回として記述される。したがって、意識は、世界内に生きる私たちの身体的自己において、自らが自らの裡で自らに到来した世界の経験として記述される。最後期の西田哲学において、意識は、このような仕方で、歴史的生命の論理にしたがって、世界内に場所的に位置づけられたのである。