内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四)

2014-04-18 00:00:00 | 哲学

自己身体の根源的受容可能性(2)

 我々の身体が生ける存在として行為し始めるやいなや、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉であるという二重の両義性が、我々の身体が生きる世界における現実性となる。この二重の両義性こそが、生命の世界における能動性と受動性の複雑な諸関係をもたらしているのであって、その逆ではない。言うまでもないことだが、西田はこのような二重の両義性について明示的に語ってはいない。しかし、この二重の両義性を導入することによって、西田の思考の諸ベクトルを裏切ることなしに、行為的直観の世界における〈見る〉と〈働く〉との弁証法的な諸関係を解明することができると私たちは考える。
 西田において、行為的直観は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体が、自らが生き住まう環境の中で実行する根源的な〈なす[faire]〉― この「なす」には、「成す・為す・生す」という三重の意味が込められている ― ことを意味している。行為的直観を構成する二つの契機が、直観的契機と行為的契機とに区別されるのは、第一の契機が身体の受容性に対応し、第二の契機が身体の形成的活動性に対応するという意味においてである。前者は〈見る〉ことであり、後者は〈働く〉ことである。両者は、世界における身体的存在にとって根源的な受容可能性とそこにおいて発現する能動性とをそれぞれ指し示している。〈見る〉とは、常に開かれた一領野として自らを限定しつつ、そこに諸々の形を無限に受け入れ、迎え入れることであり、〈働く〉とは、無限に新しい形を迎え入れることができる領野と自己自身とに一つの形を与えることである。前者は受容的包括的な〈場所〉を、後者は限定的な形成活動を構成する。行為的直観において、両者は不可分であり、〈一〉をなしている。〈見る〉ことは、その領野において〈働く〉ものによって能動性を与えられ、〈働く〉ことは、それを受け入れ現実化する〈見る〉ものによってその場所を与えられる。
 この〈見る〉と〈働く〉との間の根本的な弁証法的関係は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体の二重の両義性の間に生じる一種の「交叉[chiasme]」として表現される。見ることによって一つの形を迎え入れることで、身体は受容することができるものとなり、働くことによって一つの形を自他に与えることで、身体は見えるものとなる。〈働くもの-受容するもの〉である身体は、諸々の形が与えられ受け入れられる可視性において具現化され、〈見るもの-見えるもの〉である身体は、能動性と受動性とが共に迎え入れられる受容可能性において自らを経験する。無限に受容的な受容可能性においてこそ、すべての限定された行為はそれとして現実化される。しかし、このような無限の受容性の原理が現実的な実効性をもつのは、我々の身体の各々が実行する〈なす〉ことによってのみである。このような根源的受容可能性は、それゆえ、「自己自身のうちに隠されままで、永久に眼差しを逃れる」本質([l’essence qui] « demeure cachée en elle-même, et échappe perpétuellement au regard », Michel Henry, L’essence de la manifestation, Paris, PUF, 1963, p. 482)のようなものではない。それは、我々の現象的身体を通じて、行為的世界において、自らをまさに〈生命〉として現象させる。