内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十)

2014-04-24 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(2)

 このように行為的身体を世界内の可動的観点として見るとき、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的身体の実存様態の二重の性格が自ずと明確になってくる。行為的直観の焦点として、私たちの行為的身体は、まずもって受容性と行動性とが同時に現実化される〈場〉である。それが客観的認識の主体となるのは、〈見るもの-見えるもの〉である身体がまず示す実践的関心から自らを独立させる思考の手続きを経て以後のことである。それに先立って、認識作用は、私たちの行為的身体が実行する、世界にある形を与えかつそれを世界の中で受け入れるという、贈与と受容という二重の性格を持った原初的経験の中に必然的に内含されている。
 行為的直観における原初的認識のこの二重の性格は、実践的関心から離れた理論的認識に優位性を置く理性主義に対する批判の根拠となるだけではなく、実践的認識と理論的認識とが根本的には分離不可能であるという帰結に私たちを導く。このような立場に立つとき、理論的認識は、〈見る〉ことと〈働く〉こととが不可分な行為的直観の経験を出発点として、組織的な抽象化の手続きを経て獲得された客観的認識のシステムであると定義することができる。
 行為的直観の世界で或る一つの認識が成立するとき、私たちの行為的身体は、そこに自ら住まう世界において、どのような身分を持ち、どのような機能を果たしているのか。行為的身体は、行為的直観の焦点として、世界が自らの内で自らに与える認識の生誕地である。世界は、私たちの〈見る-働く〉身体によって、世界それ自身の内部において、自ら自身を認識する。私たちの〈見る-働く〉身体は、世界を構成する種々の形を与えるものでありかつ受け入れるものであり、これら種々の形は、時間・空間的に限定された形として、歴史的世界を現実的に構成している。歴史的世界を構成する他の諸々の形との関係において、限定しかつ限定される形として、私たちの行為的身体は、歴史的世界によって歴史的に限定された仕方で行動する。この世界の只中にあって、私たちの行為的身体は、自らの行動によって世界に一つの形を与えることによって、世界を内側から限定している。

我々は行為的直観の現実に於て、即ち歴史的現在に於て、作業的要素として身体を有つ。現実は一般の特殊として我々を限定すると共に、我々は何処までも自己自身を限定する個物として現実を限定する。それが我々の行為である。歴史的世界の作業的要素として我々の行為はいつも身体的である(全集第八巻九五-九六頁)。

 この意味において、西田は、私たちの身体を「歴史的身体」と呼ぶ。行為的直観の現実によって、私たちの身体は、歴史的に限定されたある一定の空間において作業実行可能な要素となる。行為的直観が私たちの〈見る-働く〉身体にとって原初的現実であり、私たちの身体の価値・機能は本質的に歴史において限定されているという意味において、私たちの身体は、まさに歴史的身体なのである。歴史的身体として働くということは、歴史的世界の中で現実的に行動するということである。私たちの行為的身体は、歴史的世界そのものから生まれて来たものであり、そこにおいてのみ行為的身体でありうる。したがって、私たちの行為的身体がそこにおいて生きている歴史的世界を非歴史的に超越することは、定義上ありえない。私たちの〈見る-働く〉自己は、身体として限定されており、歴史的世界の中にしか在りえない。