内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(一)

2014-04-15 00:00:00 | 哲学

 今日から第四章に入る。この章では、最後期西田の身体論とメルロ=ポンティの身体の現象学とを詳細に比較検討していく。この両者の身体論には、一見して見て取りやすい類似点・親近性があるために、この問題を扱った先行研究も少なくない。それだけに、それらの成果を前提にしつつ、かつ必要に応じて、本稿の立場とそれらとの差異を際立たせることによって、また場合によっては、それらを批判することを通じて、より正確に本稿の論点を明確化することが求められているとも言える。


第四章
行為的世界における自己形成的生命
—「行為的身体」と「知覚的身体」との区別と関係 —

 西田哲学において独自の身体論が構想されるのは、歴史的生命の世界における人間の根本的な存在様式を示す概念として行為的直観が導入されて以降のことである。「身体についての西田の独特な思索は、行為的直観の構造を身体性に即してとらえるところから始まる」(湯浅泰雄『身体論』、講談社、一九九〇年、五〇頁)。本章では、西田の身体論が特に詳しく展開されている「論理と生命」(全集第八巻)に依拠しながら、行為する身体と行為的直観の関係を考察する。


1— 行為的直観の世界における身体

1. 1 行為的直観の世界における身体の両義性

「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体(1)

 西田の身体論において、自己身体は、主観的なものでも客観的なものでもない。それは、それ自身によって、それ自身において、贈与と受容との二極間の弁証法的関係、すなわち「見ることと働くこととの矛盾的自己同一体系」を構成するものである。ここで「見る」とは「形」を受容することであり、「働く」とは「形」を与えることである。我々の身体は、何かを見るとき、見られた対象の形と見ている自分自身の形とを、その対象と自分自身とに与えつつ、同時にそれらを受容する。見ることによって、我々の身体は、諸対象の只中に投げ入れられ、まさにそのことによって、行為の世界がその身体に対して開かれる。行為によって、我々の身体は、諸対象が形成する構成形態の中に自らを置き、まさにそのことによって、その身体が他の見えるものとの関係において見えるものとなる視野が開かれる。このようなパースペクティヴから、西田は、同時に見るものであり見えるものであるという自己身体の根源的な存在様式を、「非連続の連続の関係」と呼ぶ。
 西田の身体論をこのように要約することができるとすれば、それは、メルロ=ポンティの身体論に極めて近い立場に立っていると言うこともできるだろう。しかし、まさにそのように両者が接近する場面においてこそ、両者の間に決定的な差異がないかどうかも問われなければならない。

身体というものなくして、我というものはない。併し我々は身体を道具として有つ。我々の身体も外から見られるものである。併し我々の身体は見られるものたると共に、見るものである。身体なくして見るということはない(新全集第八巻四九頁)。

 この一節にメルロ=ポンティ身体論の基本的テーゼの一つ「私の身体は見るものであると同時に見えるものである」(« mon corps est à la fois voyant et visible », Merleau-Ponty, L’Œil et l’esprit, Paris, Gallimard, 1964, p. 18.  邦訳、滝浦静雄・木田元訳『眼と精神』、みすず書房、一九六六年、二五八頁)との明白な類似性が認められることは論を待たない。実際、最後期西田の身体論には『知覚の現象学』と『眼と精神』におけるメルロ=ポンティの身体論のいくつかの基本的テーゼと著しく類似した論点が見出されることは、夙に指摘されているところである。例えば、野家啓一の論文「歴史の中の身体」(上田閑照編『西田哲学 没後五十年記念論文集』、創文社、一九九四年、七五-一〇〇頁)をその代表的な例として挙げることができるだろう。
 しかし、本章の目的は、西田とメルロ=ポンティの身体観が極めて接近するまさにその地点において、両者を厳密に区別するための相違点を際立たせることを通じて、行為的直観という概念によって開かれてくる西田哲学固有の地平を、生命の哲学の行為的世界の次元における展開として考察することにある。
 この相違点に関して、本稿は、湯浅泰雄『身体論』(前掲書)第一章第二節「西田幾多郎の身体観をめぐって」から重要な示唆を受けているが、以下の二点において、本稿は同書と見解を異にする。
 第一に、行為的直観の二つの構成契機の区別の仕方について。湯浅は「行為」という契機を「人間存在の主体性の側面」に、「直観」という契機をその「客体性の側面」に関係づけているが(同書五三頁)、この両契機は、このような主客の二元性には対応しない。この点については、本節で後に検討する。第二に、「日常的自己の行為的直観」と「場所的自己の行為的直観」という湯浅による区別の仕方について(同書六二頁)。西田のテクストの中に、この区別を正当化する箇所は見出しがたい。行為的直観の立場からなされた、自己の異なる諸次元の区別に関しては、「ポイエーシス的自己」と「創造的自己」との区別こそ本質的な意味を持っていると本稿では考える。この区別については、西田哲学の方法論という論脈においてすでに本稿第二章で検討したので、ここでそれを繰り返すことはしない。