2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(3)
本節で取り上げる第三のテキストである論文「私の絶対無の自覚的限定というもの」は、田邊元が「西田先生の教を仰ぐ」(『哲學研究』第一七〇号、1930年五月)において展開した西田哲学批判に対して応えようとして書かれたという特別な経緯をもった論文であるが、ここではどのような問題場面でメーヌ・ド・ビランが引用され、その中でビラン思想がどのような役割を果たしているかを考察し、また〈絶対無〉という原理によって開かれたパースペクティヴの中でビラン思想が果たしうる潜在的な役割に言及するにとどめる。
西田は、この論文の中で、絶対無の自己限定を認識の根本的作用とする立場から、三次元からなる世界の認識論的構図を提示する。すなわち、外的諸対象の世界の客観的認識、判断する自己の反省的認識、認識対象世界およびそれに対する判断作用の根柢にあってそれらを可能にしている自覚的限定作用の三次元の区別と関係をこの立場から包括的かつ統一的に記述している。
第一の次元は、知覚によって限定されたものとして現れる外的世界についての判断である。私によって経験された知覚は、世界の感覚的諸形態の一つの構成として限定されることによって表現される。この知覚は、場所の自己限定作用を具体的な仕方で表現しており、このことが知覚世界をまさにそれとして現れさせている。知覚は、絶対無の自覚的限定のある一つの感覚的様式を、一言で言えば「ノエマ的限定」を構成している。そこにおいて、世界自身の中での世界についての一つの判断が与えられる。この事実そのものの中において、判断作用は、相対無の自己限定として成立するが、相対無と言われるのは、この作用が、自らがそこにおいて現実に成立する世界に一つの形を与えつつ、作用として自らはいわばその形の中に無として隠されているからである。
第二の認識の次元において、つまり、この判断作用そのものが反省的思考の対象となるとき、この判断作用とこの作用が現に実行される場所としての考える自己とが区別される。この考える自己が個々の具体的判断過程および認識対象世界に対して独立かつ自律した主体として限定されるかぎりにおいて、それは、「ノエシス的自己」と呼ばれうる。しかし、この自己は、その内部そのものにおいて感じられた自己、内的直接的覚知によって捉えられた自己ではない。なぜなら、この次元では、ノエシス的自己はその志向的対象と不可分だからである。
もっとも深く包括的な第三の次元において、このノエシス的自己をまさに自己たらしめている根源的作用である本来的に表象不可能であり自己触発的な自覚的限定作用がそれとして経験される。ここで提起されるのが、次の問題である。この自覚的限定がその内部そのものにおいてまさにそれとして直接的に自らを把握するのはどのようにしてなのか。この問題が主題化される場面において西田はビランに言及する。
自覚的限定作用そのものは本来的に対象化も表象化もできず、その根源的な内在性において覚知されるほかはない。それは距離なく自ら自己自身に現れることそのこととしての自己のことであり、感じることとして自らを自らに与えることとしての自己である。では、どこで、この感じることそのことは、自らをそれとして感じるのか。この問題を自ら問う論脈において、西田は、ビランを引用する。