1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(4)
本稿第四章の前半部を構成する「1— 行為的直観の世界における身体」の三つの節で、西田の身体論・道具論・技術論をここまで見てきた。それらをここ前半部の終わりにもう一度簡単にまとめ直し、メルロ=ポンティの現象学的存在論によって開かれる問題場面において西田の身体論を考察する後半部「2 ー 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中に映された歴史的身体」への橋渡しとしたい。
私たちの身体が〈見るもの-見えるもの〉であるのは、それが同時に行為的・受容的であるかぎりにおいてである。この二重の両義性から、私たちの身体の経験における、〈受動性-能動性〉〈内部性-外部性〉〈感受性-創造性〉というそれぞれの二項間の弁証法的関係は理解されなくてはならない。
私たちの行為的身体は、技術を介して、世界を自らの「自己身体」として現われさせる。この技術とは、行為的身体に対する対象を道具として使って物を作ることを身体に可能にする知である。しかし、まさにそれゆえに、私たちの制作的身体は、種々の道具の複雑なネットワークとして自らを形成する世界の道具となる。私たちの身体は、行為的直観の焦点として、自己形成的な世界の二重の意味での形成素である。つまり、世界を形成するものでありかつ世界において形成されるものである。
歴史的世界において私たちの行為的身体が表現することは、世界が私たちの行為的身体において自らを表現することにほかならない。私たちの身体は、歴史的世界内存在の表現的身体であり、これは、歴史的に限定された所与の諸形態を介して世界に新しい一つの形を与えることができるということを意味している。この私たちの歴史的身体による贈与によって、世界は自らに新しい形を与えるのであり、世界はその内部において自己を更新していく。
以上のように西田の歴史的生命の世界における身体論・道具論・技術論をまとめることができるとして、残された問題はなんであろか。それは、歴史的生命の世界における歴史的身体の現われ方をいかに記述するかという問題である。この問題を扱うには、生ける身体の所作・行為・行動に、それらの複雑さと創造性に適った仕方でアプローチしなくてはならない。
しかし、西田自身の論述は、しばしば思弁的に過ぎ、問題の現象を記述するのに充分な術語体系を備えていない。生命において現実的に結合し統合されているものをそれとして区別するために適切な概念装置を持っていなければ、生命において形成されている要素間の結合関係について何も正確には知り得ないことは言うまでもない。しかし、互いに結びついている諸要素をただ概念的に解体・分離するだけでは、生ける全体として捉えようとしているものを、つまり、身体と世界との間の動的な諸関係の全体に迫ることはできない。
世界は、それ自らに対して、私たちの歴史的身体において、いかに現れるのか。私たちの歴史的身体は、それ自らに対して、行為的直観の世界において、いかに現れるのか。歴史的身体は、自らがそこに住まう世界において何を表現するのか。歴史的身体と歴史的生命の世界との関係をめぐるこれらの問題にアプローチする一つの方法として、本章の後半部では、メルロ=ポンティの現象学的存在論を通じて、歴史的身体がその現勢態おいて現れる場面を捉えることを試みる。