昨日まで約一ヶ月間に渡って、第一章と第二章とを連載してきた。第一章では、西田哲学の全展開過程をある一つのパースペクティヴの中で捉えることを試み、第二章では、西田哲学の方法論を西田自身のテキストから引き出すことを試みた。この二つの章は論文の主題に対して予備的考察に相当し、今日から連載する第三章から第五章までが論文の主要部分をなす。この三つの章は、西田哲学をフランス現象学と対決させながら、その言語空間の中で西田哲学の核心的問題を読み解き、その検討作業の結果として得られた観点から、今度はフランス現象学への一視角を開こうという、双方向的な二重のアプローチをその課題としている。つまり、この部分において、論文の副題「フランス現象学の鏡に映された西田哲学」が示している対象への接近方法が詳細に展開されていく。
第三章
直接的自己経験としての内的生命
— 「自覚」と「内感」との交差する場所 —
西田哲学が、その全過程を通じて、主にドイツ哲学、とりわけカント、フィヒテ、ヘーゲルによって代表されるドイツ観念論や新カント主義あるいはフッサール現象学からの批判的摂取とそれらとの対決を通じて形成されていったことは論を待たない。西田哲学の研究史において、これらドイツ哲学の諸流派との比較研究が盛んなのもそれゆえ当然のことである。それに対して、西田哲学とフランス哲学との関係はより狭く限定されたものであり、西田がフランスの哲学者たちから大きな影響を受けたとは考えにくい。それゆえ、西田哲学とフランス哲学との比較研究、とりわけ西田がフランスの哲学者たちを直接どう読んでいたかをその哲学形成の諸契機との関係の中で綿密に考察した研究はきわめて乏しい。
『善の研究』前後の初期の西田は、ベルクソンの哲学的方法に深い共感を示し、それをきわめて高く評価し、『自覚における直観と反省』の中ではベルクソンの持続概念に頻繁に言及するばかりでなく、それに対する批判的見解も示し、以後ベルクソン哲学に対しては、とりわけその持続の概念に対しては、つねに一定の批判的距離を取りながら,持続・時間・直観・生命等が主題とされる場面で繰り返しベルクソンの主張を引用している。
晩年には、近代哲学の限界を乗り越えるためにデカルト哲学へ今一度立ち戻ることの必要性を訴えながら、自らの哲学的立場からデカルトのコギトへの接近しようとしていたことは、第一章ですでに見たところである。それは、西田固有の仕方でデカルトの立場をさらに徹底化させようとする試みであった。
西田は、また、折に触れ、パスカルの『パンセ』を引用している。西田がとりわけ好んで引用するのが「考える葦」と「人間の不均衡」というよく知られた二つの断章である。前者の中に私たちの自己と世界との矛盾的自己同一と西田が呼ぶものの見事なまでに簡潔な表現を見、後者の中に見られる「その中心がいたるところにあり、その円周がどこにもない無限な球」という表現を西田の言う歴史的実在の世界の適切な表象として捉えている。
デカルトのコギト、パスカルの人間学、ベルクソンにおける持続概念との関係において西田哲学を考察することには、それぞれ西田哲学のある一つの根本概念に接近する途としての意味があると思われる。それゆえ、本書第一章の中でベルクソンの純粋持続と西田の純粋経験との差異に言及し、デカルトのコギトとの関係において西田の自覚について若干考察した。しかし、この三者との関係において西田哲学を読むことには、それ相当の準備が必要であり、少なくともそれぞれに一章を割いて検討するに値するテーマであり、それは本稿の企図を越え出ることなので、この三者についてはこれ以上本稿では言及しない(ただし、パスカルの人間学については、本章の中でメーヌ・ド・ビランの内的人間の人間学との系譜的関係が問題になる場面において若干言及する)。