内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十六)

2014-04-30 00:00:00 | 哲学

2. 2 〈肉〉の基本的的性格

2. 2. 1 〈可視性 visibilité〉(1)

 〈可視性〉は、見えないものと対立するものとしての見えるものだけがそれに属するのではない。ある「図」が描き出される「地」、立方体の隠れた面、ある物がその見えない側面とともにそこにおいて現れる奥行などもこの〈可視性〉に含まれる。そして、それらを見ている私もまた見えるものである以上、やはり〈可視性〉に帰属する。
 ある物の形がそれとして立ち現れるために不可欠なものとしての背景である「地」、つまり「図」をそれとして成り立たせるところの「地」が可視性に属するのは、それがその図と同じ資格で見えるものではないとしても、その地があってはじめて図が見えるものとなるという意味においてである。立方体の隠れた面が〈可視性〉に属するのは、その隠れた面が、今見えている面と同時に同じ資格で見えているとは言えないとしても、立方体がそれとして現れるためには、見えている面と「共存」しているか(VI, p. 184)、あるいはそれとは別の様式で同時に存在していなければならないという意味においてである。
 ここで、大森荘蔵がこのような知覚されえない面を「虚想」と名づけ、立ち現れ一元論の中で問題化していたことを思い合わせるのも、メルロ=ポンティの意想のよりよい理解のために無益ではないかもしれない。「知覚されえない背面の知覚的思いこそ、今現実に見えている机の姿を机の姿たらしめる、その意味でこの虚なる思いこそ現実を現実たらしめているものなのである」(「虚想の公認を求めて」『物と心』1976年所収参照)。
 以上の知覚的経験の事実が私たちに教えることは、〈可視性〉には時間性も含まれているということである。つまり、〈今〉見えているものは、〈すでに〉見えたものや〈まだ〉見えていないもの、〈これから〉見えるかもしれないものを常に伴うことではじめて、見えるものになっているということである。
 しかし、奥行に関しては、それを「地」や隠れた面と同列の事実として論じることはできない。奥行が〈可視性〉に属するのは、それらとは別の仕方であり、それだけでなく、奥行において、私たちは、メルロ=ポンティの現象学的存在論の核心に触れることになる。なぜなら、メルロ=ポンティにおいて、ある物の様々な見え方がそこにおいて展開され、その物の見え方がそれゆえに無尽蔵でありうるところの〈奥行〉は、それなしにはそもそも〈可視性〉が成り立たない、その基軸的次元だからである。〈奥行〉は、ある時ある視点からだけ見えないものなのではなく、すべての見えるものが見えるものとしてそこに現われるようにするところの〈見えないもの〉であるという意味において、けっして見えるものに変換されることのない「優れて隠されたものの次元」(« la dimension du caché par excellence », VI, p. 272)なのである。この〈奥行〉において、見えるものの一つが見るものとして分節化されるのであって、見えるものとは独立な見るものがまずあって、その視覚によって知覚世界に〈奥行〉が生じるのではない。
 以上のような諸要素・次元を含むものとしての〈可視性〉が単なる個々の可視的経験の事実の集合としての可視性に還元されうるものではないことは、もはや明らかであろう。〈可視性〉は、見ることにおける存在論的経験の全構造の第一性質とでも呼ぶべきものであり、五感のうちの一つである視覚の構造の性質ということに限定されるものでもない。なぜなら、〈可視性〉における見えるものと見るものとの円環構造は、私たちの全知覚経験に共通する基本構造でもあるからである。