内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(六)

2014-04-20 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(2)

我々は我々の生物的身体から出立して物を道具として有ち、物を技術的に自己の身体となす、そこに技術的身体が構成される(全集第八巻三五頁)。

 私たちの生物的身体が道具を介して技術的身体へと変容する、身体の技術的変容過程を通じて、「世界が自己の身体となる」(同頁)。このことは、道具が人間の身体の延長であることを含意するだけでなく、それと同時に、人間の身体それ自身が諸道具によって構成されている複雑なシステムの一部を成すということも意味している。「技術的に世界を見ると云ふことは、自己が世界の中に入つて世界を見ることである」(同巻四六八頁)。人間の身体が世界において起動的・操作的でありえ、世界の感覚的所与に基礎づけられて行動することができるのは、その身体が諸道具の機能的なネットワークに属しているかぎりにおいてである。
 道具というものは、その形がその他の諸事物の諸形態との関係においてつねに歴史的に限定されているが、その諸形態もまた、歴史の中で形成され、ある時代ある場所に一定の形をもって現れる。世界は、歴史的に相互限定的な諸事物が構成する複雑なネットワークからなっている。制作的身体あるいはポイエーシス的身体であるかぎりにおいて、人間の身体もまた、ある機能をもった道具であり、その機能が歴史的に限定された機能的一事物としてその存在論的性格が定義されうる生ける存在である。人間は、身体的存在として、歴史的世界の中で、諸々の人間身体が自らを取り巻く諸道具やその他の諸事物との間に織りなす諸関係が構成する複雑なネットワークにおいて、機能的起動点として働く。
 ところが、まさにそれと同時に、人間身体は、生命の世界において原初的な行動の意志を現実化する。自ら行動することができる身体の立ち位置から、世界に見出されるすべてのものが行為的身体との関係のもとに置かれる。世界は、行為的身体に与えられたものとして現れるが、その行為的身体は、そのようなものして、その世界そのものに与えられる。この包括的な世界の現われにおいて、世界は〈見るもの-見えるもの〉である身体を自らのうちに生み出し、行為的身体の観点は世界の観点となる。かくして、世界は自らの内部において自己自身を見る。
 そこにおいて、すべての対象は、外部から見るものなくして見えるものとして現れる。このような世界の世界自身への現われが、「見るものなくして見る」という表現によって西田が指し示そうとしている世界の現象性なのである。自らに自らを現れさせるという作用が、志向的対象の世界を私たちの身体的自己に対して構成する。世界が世界自身へ自らを現われさせる作用が、世界に現れる諸事象を志向的対象として現われさせている。それゆえに、自らに現れた世界は、私たちの身体的自己にとって意識の世界として把握されるのであって、その逆、つまり、私たちの意識によって世界が世界として現れるのではない。私たちの身体的自己は、世界が自らを自らの内にそこから映す射影点にほかならない。一言にして言えば、最後期の西田哲学は、意識の誕生を、世界が世界自身へと自らを立ち現れさせることのはじまりとして捉えているのである。