内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(二)

2014-04-02 00:00:00 | 哲学

 本章で、私たちは、デカルト、パスカル、ベルクソンそれぞれの哲学とはまた違ったフランス哲学のパースペクティヴから西田哲学の根本問題の在り処への接近を試みる。そのために、まず、西田が、パスカルによってその基礎が置かれたと考える「フランス哲学独特な内感的哲学」に、ドイツ哲学にも英米哲学にも見出しがたいフランス哲学の固有性を見出し、それに対して青年期から最晩年まで深い共感を覚えつづけていたという事実を思い起こすことから始めよう。というのも、このフランス哲学への西田の恒常的な関心の中に、彼を飽くなき哲学探究へと駆り立てている情熱の情感的基底への扉を開く鍵の一つが隠されていると思われるからである。
 このフランス哲学への深い共感について語っている「フランス哲学についての感想」という全集版で四頁ほどの短いエッセーの中で、西田は、特にメーヌ・ド・ビランへの若い頃からの興味を思い起こしているが、このメーヌ・ド・ビランこそは、西田が『善の研究』に集約されてゆく思想の形成期からすでに関心を持ち、場所の論理の形成期にも言及しつづけ、「歴史的生命」の論理が展開される最後期まで親近感を持ち続けた数少ない哲学者の一人なのである。さらに重要なことは、両者の思考には、それぞれの哲学の根本問題が提起される次元において、明らかに互いに共鳴し合う深い親近性があることである。それゆえ、その親近性が明らかになる問題場面を通じて、西田の哲学的思考をフランス現象学の系譜の淵源と見なされうるメーヌ・ド・ビランによって開かれる思考空間の原点において捉え、そこからその射程を見定めることは、少なくとも西田哲学に対する一つの観点としては、成り立つと思われる。
 その場面とは、西田の「自覚」とビランの「内感 sens intime 」とが交叉する場面である。このそれぞれに固有な概念をめぐる両者の議論をつぶさにつき合せるとき、いわば合わせ鏡のように、それらが互いの思考空間の中に映し出され、そして、その過程を通じて、両者の言語空間の間に、新たな哲学的対話の空間が開かれてくる。一方では、内感についてビランが倦むことなく繰り返す精細な現象学的記述を通じて、〈私〉における自覚の内部構造へと導かれ、他方では、根源的自己の存在構造としての自覚の構造について、その定式を徹底的に先鋭化させようとする西田の論述を介して、ビランの内感の存在論的次元へと導かれる。
 ところが、このように両概念が交叉し、共鳴し合い、両者の親近性が明らかになるまさにその問題場面において、両概念の差異、それぞれの限界もまた照らし出され、それらの限界を乗り越えていくべき方向も示されることに私たちは気づく。自己の内的直接経験としての自覚あるいは内感という問題圏内にとどまる限り、それらの経験の主観的内在性を超えることはできず、世界に対する自己身体の関係を世界の側から捉えることもできず、したがって、自覚あるいは内感を世界における出来事として問題化できないことは明らかである。
 私たちは、これから西田とビランとの間に開かれる哲学的対話の言語空間を、ビランへの言及が見られる西田のテキストに即しながらつぶさに探査してゆく。それらのテキストを、(1)論文「場所」(一九二六年)以前、(2)場所の論理の成立とその展開期である後期、(3)「行為的直観」概念が創出される最後期の三期に分けて、それぞれのテキスト群の中での西田の問題の立て方をビラン哲学の根本問題との関係において考察していく。そうすることで、西田哲学の基本的な問題設定の仕方が場所の論理成立以前と以後でどのように転回するか、そして行為的直観論によってもたらされる最後の理論的転回がどのようなパースペクティヴを開いているか、それらの転回の過程をビランによって記述された内的経験の領野において的確に捉えることができるからである。