2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(4)
我々の自己はメーヌ・ドゥ・ビランの云う如き能動的感覚に即して考えられるのである。習慣によって益々明となるという能動的感覚という如きものに於ては既に自己が含まれていなければならぬ。それでアリストテレスの云う如きヒポケーメノンとして判断の基礎となる感覚的なるものはメーヌ・ドゥ・ビランの所謂能動的感覚の中に含まれた自己という如きものと云うことができる。
この一節は、西田が問題をどの次元で根本的に解決しようとしているかを明確に示している。能動的感覚に含まれている自己は、ノエシス的自己として経験されるが、このノエシス的自己は、習慣によって与えられる感覚世界において自己限定する無として現に作用している。この能動的感覚において経験される自己は、自らが無として経験されるこの世界と不可分であるが、この世界の中に対自的に現れることはないものとして自己限定する。
このノエシス的自己は、直接的に与えられた感覚性の外にいかにして出ることができるのか。ノエシス的自己は、能動的感覚において自らをそれとして把握しつつ、習慣によって与えられた世界を内側から感じる。能動的感覚をもたらしそれを鋭敏化する習慣を媒介として、その能動的感覚によって捉えられた世界は、ノエシス的自己において内在化される。西田は、ビランの内感にこの自己と世界との弁証法的関係を可能にする契機の在所を見ようとしている。つまり、内感は、単に受動的な内在性ではなく、意志的努力にその起源があり、自らを内感する自己は、世界において意志的行為を実行するというビランのテーゼに注目するのである。しかし、西田は、ビランの内感の哲学が個別的自己によって生きられた原因を出発点とするかぎりにおいて、なお「何処までも内から見て居る」内在性の立場にとどまっていると、その限界を指摘する。西田の立場からすれば、内感の哲学は、絶対無の自覚的限定を捉えるに至っていない。ノエシス的自己によって内側から生きられた世界を、絶対無が超え包みつつ、自らをこの世界として自己限定しているということを、内観の哲学だけでは捉ええないと西田は考えるのである。
内在性が現実的にノエシス的自己の自覚として経験されるのは、その自己が外在性によって限定されるかぎりにおいてである。ノエシス的自己の内感が成立するのは、その自己が外なる世界を内側から生きるかぎりにおいてである。では、この内在性と外在性の相互限定的な動的関係を可能にしている作用は何か。それが知覚である。知覚は、ノエシス的自己が行為することによって自己を表現する領野を開く。この知覚の領野において、ノエシス的自己の内容は、具体的個別的な仕方で表現される。西田において、絶対無の自覚的限定という基本原理がこうした内在性と外在性との動的関係を知覚世界の中に位置づけることを可能にしていると言うことができる。
しかしながら、このような西田哲学のパースペクティヴに立っても、ビランによって記述された自己身体の内的空間、内在性と外在性との間の中間領域としてそれらいずれにも還元しがたいこの空間を、それとして判然と区別することはできない。この中間領域としての自己身体の内的空間の問題には本章最終節第四節で立ち戻ることにして、次節では、西田哲学において身体の問題が中心問題の一つとして考察される最後期の問題領野、つまり行為的身体が本質的要素として現れる歴史的生命の世界へと問題場面を移して、そこに見られる理論的転回によってもたらされる新しい観点から捉え直されたビランの能動的習慣について考察する。