2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(2)
本節が考察対象とする第二のテキスト「場所の自己限定としての意識作用」において、西田は、場所の論理に基いて作用としての意識を定義している。作用としての意識を対象として表象された意識から判明に区別することがそこでの問題である。いかにして作用しつつある意識は距離も遅れもなく自らをそれとして把握することができるのか。言い換えれば、現に作用しつつある意識の過程を、思考の対象としてではなく、内側から捉えることはいかにして可能なのか。西田にとって、この問題は、私たちそれぞれの自己において自覚がそれとして経験される可能性の問題、つまり個物における場所の自己限定の可能性の問題なのである。「場所の自己限定ということが最も広い意味に於て知るということ」である。この論文の主たるテーゼは、この命題の中に要約されている。場所自身の絶対無としての自己限定は、無数の存在がそれぞれの立場において具体的個別的な仕方で自己自身を限定することそのことによって各瞬間にいたるところで現実を事実構成している。それ自身において把握された意識の作用もまた、場所の自己限定であり、それが自己の内在的な知である。
「哲学は無にして自己自身を限定する自覚そのものの事実に基いて成立するのである。」この自覚は、私たちの自己において経験される。したがって、哲学は、「自覚的人間の人間学」である。このように要約されうる立場から、西田は、ビランの人間学に論文の終わり方でアプローチしている。ここでもまた、先に見た小論文「人間学」におけるのと同様なビランの人間学の位置づけをデカルトとパスカルとの関係において提示しているが、さらにカントの意識一般、フィヒテの超越的意志、ヘーゲルの弁証法へと展開していく意識論の観点から見ても失われないビランの内感の哲学の意義を特筆する。その上で、西田は、ビランの人間学を「自覚的事実の独立性を把握しながらも、その認識論的意義が明でない」と批判する。
この批判は、論文の最終段落に提示される私たちの精神的生の基底としての神という最後期のビランの思想に対する批判と結びついている。このビランにおける精神的生は、「自己の感情の喪失によって神のうちに吸収され、自己とその現実的絶対的な唯一の対象との同一化」(« l’absorption en Dieu par la perte du sentiment du moi, et l’identification de ce moi avec son objet réel, absolu, unique », Nouveaux essais d’anthropologie, p. 322)によって特徴づけられる。西田は、本来ノエシス的なものをノエマ化する形而上学の陥穽をそこに見ている。西田によれば、私たちの自己の根柢は、「ノエマ的神にあるのではなくノエシス的神にある」。
このノエシス的神とは、「絶対無の自覚」であり、そこにおいて「神なき所に真の神を見る」ということが成立する。西田が「そこにすべてのものの根柢があるのである、それは我々の自覚的自己の根柢たるのみならず、神そのものの根柢となるのである」とまで言うとき、私たちは西田哲学の情感的基底に触れている。私たちの自己は、内感が内感として無基底的に自己を触発する或る一つの限定された場所として、つまり絶対無の場所の自己限定がそれとして現実化されている或る一つの限定された場所として、すなわち神を失った自覚者としてそこに生きているのである。
西田は、この論文を、「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と締め括っている。論文の結論としてはいささか唐突とも思われるこの言明は、西田の個人的感懐の吐露に過ぎないのであろうか。むしろ、この哲学の動機としての「深い人生の悲哀」というテーゼは、それが言及される論脈を前提としつつ、哲学の根本動機の情感的基底についてのテーゼとして考察されなければならないのではないであろうか。ここでは問題の指摘にとどめ、その立ち入った考察は本論文の結論部において行うことにする。