1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(2)
西田がビラン固有の概念に言及しているテキストとして、次に注目されるのが、一九二四年に発表され、後に『働くものから見るものへ』(一九二七年)の前編に収録された論文「物理現象の背後にあるもの」である。この論文の中で西田はビランにおける因果性の基底としての「意志的努力」を引用しているが、それは、確信を、内的知覚と外的運動へと向かう能力の意識とを結びつける中間項として取り上げている文脈においてである。反復によって遅かれ早かれ消失していく受動的印象とそれによってより明晰になる能動的感覚とのビランによる区別を取り上げ直しながら、西田は、習慣によって獲得された確信の内容が能動的感覚の内容であると見なし、その中に確実で疑い得ない知識の起源があるとする。つまり、能動的感覚の中に、作用としてそれ自身によって直接把握される知識、能動的自己が能動的習慣を通じて明晰判明に把握しうる根源的知識を見ているのである。西田によれば、習慣は、意識の中に確実なものを現れさせる。習慣は、「自己が自己の内容を明にする一種の知的作用」である。ここでもまた、西田においては、ビランがその習慣論の初期から明示していた習慣の否定的側面への言及はいっさい見られない。ところが、ビランにおいては、原因としての自己の価値は、能動的自己が習慣から独立に働くものであることそのことよって確保されるものなのである。
習慣は、自らの産出したものを特徴づけているこの自発性の領域を絶えず自然のいたるところにおいて拡大しようとする。習慣は、自らがそれを継続する動物的本能を支配すると同時に、人間的意志をも支配し、これを不明瞭なのものとし制限する。もし意志的な運動あるいは行為、意識によって明瞭化された運動あるいは行為に最初にその意志としての特徴を刻印する意志の活動が、主導権をめぐって習慣の持つ盲目的な力と闘わなかったならば、習慣は、それらの意志的な運動あるいは行為をそれぞれの限定された形の中で自発化し盲目化することによって、それらを純粋な自動運動へと退化させてしまうであろう
L’habitude tend sans cesse et dans toutes les natures à agrandir le domaine de cette spontanéité qui caractérise ses produits. Elle domine à la fois sur l’instinct animal qu’elle continue et sur la volonté humaine qu’elle obscurcit et limite. En rendant spontanés et aveugles dans leurs déterminations les mouvements ou actes volontaires ou éclairés par la conscience, l’habitude les ferait dégénérer en un pur automatisme, si l’activité du vouloir, qui leur imprime d’abord son caractère ne luttait contre cette force aveugle qui lui dispute l’empire.
Nouveaux essais d’anthropologie ou de la science de l’homme intérieur, p. 163-164.
習慣は、それ自身から始まる行為ではない。意志的運動あるいは行為の始まりにおいては、習慣は、まだ形成されていない。これらの運動あるいは行為が習慣的となるためには、それらは最初に意志されたものでなければならない。ところが一度習慣化されると、それらはその原因であった最初の意志を不明瞭化してしまう。習慣は、原因の観念を形成させるどころか、その所在を隠蔽してしまう。意志の活動は、習慣によってもたらされる自動運動化に抵抗するかぎりにおいて、それとして把握される。それゆえ、それ自身からそれ自身によって始まる原因を探さなければならないのは、意志的努力の中にであって、習慣によって与えられる感情の中にではない。意志的努力がそれとして働いているかぎりにおいて、自己は、原因として自らを経験するのである。意志的努力において、自己は、自らを純粋に自発的なものとして自己自身に現し、いかなる外的原因もなしに自ら獲得されるものとして、つまり、原因として自己自身を直接把握する。ビランにおける因果性は、このように意志的活動に分かちがたく結びついており、それは作用的因果性である。
意志的努力によって直接に把握された能動的自己の内容は、それゆえ、定義上、能動的習慣の内容から区別されなければならない。ところが、西田は、「習慣とは認識対象界に映されたる能働我の内容である」と書くとき、明らかにこの両者を同一視している。言うまでもなくこれは誤解である。しかし、まさにいささか短絡的と批判せざるをえないこの同一視こそが、ビラン哲学との関係において西田哲学のある注目すべき側面を浮き彫りにしているのであり、この側面から、西田がその当時直面していた意識の立場の超越という問題に解決を与えるのに選んだ方向を正確に把握することができるのである。
ビランによれば、自己は、意志された努力において原因として自らを把握する。しかし、より厳密には、いかなる仕方で自己は原因なのか。「意識に関係するあらゆる現象、自己が何らかの形で関与あるいは結びついているあらゆる様式は必然的に原因の観念を内包している」(« tout phénomène relatif à la conscience, tout mode auquel le moi participe ou s’unit d’une manière quelconque, renferme nécessairement l’idée d’une cause », Essai sur les fondements de la psychologie, Œuvres de Maine de Biran, tome VII-2, p. 251. 以下、この段落でのビランからの引用は、最後のそれを除いて、すべて同書同頁から)。意識の中で自己が経験される様式にしたがって、明確に区別すべき二つの原因がある。この様式が「能動的で意志された努力の現勢的な結果として覚知される」とき、この様式の原因は自己である。自己の経験様式が「受動的な印象であり、意志的な努力に対立するものとして、あるいは意志のあらゆる実践から独立していると感じられる」とき、この印象の原因は非-自己である。自己が原因として直接覚知されるのは、「努力の中であるいは意志に伴う最初の運動の中で直接覚知あるいは感じられる因果性」(« la causalité immédiatement aperçue, ou sentie dans l’effort, ou dans les premiers mouvements accompagnés de volonté »)においてである。ところが、非-自己的原因は、それがもたらす受動的印象の中で自己によって直接的に原因として感じられることが決してない。非-自己的原因は、内感には属さず、そこからの「もっとも自然な、もっとも直接的な帰納」(« l’induction la plus naturelle, la plus immédiate »)である。自己が能動的でありそれゆえ意識に関係する諸現象の原因であるのは、自己が内感において帰納や反省を介さずに直接的に自己自身に現れるかぎりにおいてである。この意味において、「自己知は原理的に外部世界についての知識とは分離することができる」(« la connaissance de soi peut être séparée dans son principe de celle de l’univers extérieur », Essai sur les fondements de la psychologie, Œuvres de Maine de Biran, tome VII-1, p. 125)。