内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十四)

2014-04-28 00:00:00 | 哲学

2 — 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中の歴史的身体(承前)

 西田哲学の思考の運動を、メルロ=ポンティの哲学的言語空間の中で展開させるという思考実験を行うにあたって、次の三つの作業仮説を立てる。(1)〈肉〉は、歴史的生命の世界を形成する〈素地〉である。(2)「垂直的あるいは野生の〈存在〉」(VI, p. 255)は、歴史的生命の世界の自己限定としてそれ自らに現れる。(3)知覚する身体 ― 〈見るもの-見えるもの〉〈触れるもの-触れられるもの〉〈感じるもの-感じられるもの〉である身体 ― は、行為的・受容的身体にほかならず、行為的直観の焦点である。一言にして言えば、〈肉〉は、行為的直観がそこにおいて実行される歴史的生命の世界の〈素地〉に与えられた名前であるという仮説を私たちは立てる、ということである。
 このような仮説に立って、私たちは、思考実験の第一階梯として、『見えるものと見えないもの』に展開されている〈肉〉の概念をめぐっての記述を辿り、その基本的な性格を取り出す。次いで、第二階梯として、『知覚の現象学』における知覚経験としての奥行の記述と『見えるものと見えないもの』における存在論的次元としての〈奥行〉の記述とを比較検討し、両者の間に見られる決定的な違いを特定する。
 ここで特に〈奥行〉に注目するのは、メルロ=ポンティにおいて、すべての存在論的問題は〈奥行〉というテーマと何らかの仕方で関係があるからである。あらゆる反省的思考に先立って、〈見る〉こと・〈触れる〉ことによって開かれる、「隠されたものの次元」としての奥行を含んだ地平においてこそ、メルロ=ポンティの現象学的存在論は展開されている。知覚世界の原初的な次元である奥行においてこそ、世界を織り成す〈肉〉はそれとして自らに対して現れる。この奥行という次元が、このような意味でいわば特権的な審級であるのは、そこにおいて、可能な種々の行為のシステムである私たちの行為的身体とその身体が住まう環境世界とによって形成される全体的な構成形態の基本構造が現れるからであり、それゆえ、その構成形態の現象学的記述によって自己身体の存在論的意味が顕にされるからである。
 以上のような〈奥行〉の存在論的意味を踏まえた上で、私たちは、第三階梯として、奥行の経験における〈肉〉と自己身体との関係から、知覚世界における自己身体の働きを記述する。
 これら三つの階梯を通じて、メルロ=ポンティが『見えるものと見えないもの』の中で示そうとした知覚世界における自己身体の働きが、最後期の西田哲学の中で歴史的生命の世界における行為的直観の担い手である行為的・受容的身体の働きに対応することが明らかにされるだろう。